恋愛童話

(今回が初出 執筆日:1997年11月03日~1997年11月20日)

 昨日あたしはフラれた。
 当たって砕けるという本当の意味がわかった日だった。
 学校をさぼった晴れた空の今日、ぼんやりと少ししか見えない白い雲を目で追ってみたりする。
 その行動に意味なんてない。
 ただなんにもしたくないだけだった。
 学校にも行きたくなかったし。
 家にもいたくなかった。
 制服着て学校行くフリをして、実際は公園のブランコを椅子にしてる。

 彼は圭くんと言って、隣のクラスの男の子。
 人気あるの知ってた。彼女いるっていう噂も何度か耳にした。
 真相は全然わかんない。だから友達に押されて勇気ふりしぼってみた。
 結果は……最悪。
 玉砕ってのはこういうこと言うんだな。
「不良」
 突然うしろから声が聞こえて、ぎょっとした。
 慌てて振り返ってみると、ブランコを支えてる鉄の棒にもたれるようにして、見知らぬ男の子が立っていた。制服着てる。あたしと同じ学校の。
「誰よ」
「あれ? わかんない? おんなじクラスなのに」
 苦笑いしながら彼が言った。けど、知らないものは知らない。
 進級してからもう半年は経ってる。けど、本当に彼のことは知らない。
「知らないよ。見たことないもん」
 アイドルみたいな顔の子。かわいいかもしんないけど、今のあたしはそれどころじゃない。こんなに暗く落ち込んでる時に、話しかけてほしくなかった。
「それに、あたし不良じゃないもん」
 ぷいって顔をそむけた。
「不良だろ。学校さぼって」
 ちょっと笑ってる声で彼が言った。
「俺、春日。覚えといて」
「もう忘れた」
 ふてくされたみたいに言ったら、彼が困った声で苦笑した。
「嘘でしょ?」
「嘘よ」
 あたし、意地悪かもしんない。
 知らない男の子に当たってる。
「ナンパだったら付き合わないよ。ばいばい」
「ナンパじゃないよ。そんな軽くないよ、俺」
「人のこと不良とか言ったけど、さぼってんの一緒じゃん」
 そう言ってやったら彼が笑った。
「そうだね。俺も不良かあ」
 ちらっと彼の顔を見てみた。やっぱしかわいい顔してた。
 だけど重く沈んだ心が復活するわけじゃなかった。
「もしもさ、ほんとに俺のことわかんないんだったら、明日ちゃんと学校に来てよ。クラスメートだって証明するから」
 言い残して、じゃあねって手を振って彼はいなくなった。

 春日という男の子の言ったことは本当だった。
 翌日学校に行ってみると、ちゃんと教室にいた。席もあった。友達もいっぱいいた。
 おかしいなとか思いながらあたしは混乱してた。
 だって本当に記憶にない。
 春日のこと。
 だけどみんなは知ってるみたいだ。
 すごく仲良しにしてるんだもん。
 あたしがどうかしちゃったのかな。
 春日と目が合ったら、ほらねって顔をされた。あたしはつい、プイッてそっぽを向いた。
「ねえ、春日くんっていつからいたっけ?」
 仲良しの友達に訊いてみた。したら変な顔された。
「何言ってんの? 最初っからいたじゃん」
「最初って、四月?」
「そーだよ。四月。変だよ瑞穂」
 その後、何人かにも訊いてみたら同じ返事だった。
 春日は最初っからこのクラスにいたんだ。
 じゃあなんで、あたしは全然知らないの?
 なにがなんだかわかんない。

 体育の授業は隣のクラスと一緒にやる。
 女子は女子、男子は男子で別れるんだけど、見えるところにいたりする。
 やだな。
 圭くんがいる。
 運動場はそんなに大きくないから、すごくよく見える。
 やだな。
 泣きそうだ。
 圭くん見たら、泣きたくなった。
 だってまだあれから二日。傷はそんな簡単に癒えてなんてくれない。
「ごめんね」
 まだ耳に残ってる。
 言葉。
 断わるのに慣れてた。
 圭くんにフラれた女の子はいっぱいいた。
 そういうことだ。
 そういうことなんだ。
 視線に気づいて目を向けたら、春日がこっち見てた。
 なんかに気づいてる目だったから、あたしの方からそらした。
 いやだな。気づかないでよ。
 関係ないんだから。

「申し訳ないんだけど」
 放課後、帰ろうと思って荷物を持った時、春日が寄って来た。
 友達に先に帰ってもらって、あたしは春日が何か言うのを待った。春日はみんながいなくなるの待ってるみたいに、ずっと口を開かなかった。
「申し訳ないんだけど」
 誰もいなくなってからさっきと同じ言葉を繰り返して、シンと静まった教室の中で春日が切り出した。
「俺ね、見ちゃったんだ。八神が圭に告白したところ」
 かあっと、全身が熱くなった。すごく恥ずかしかった。死にそうなくらい!
 そんなの、見て見ぬフリくらいしてよっ!
「で、その先まで見ちゃって、いろいろ思ったんだけどさ……」
 春日はやけに落ち着いてた。あたしは固まったまんま動けない。
 なんでわざわざ言うのって頭の中で春日を責めてた。
 春日は突然ポケットに片手を突っ込んで、何かを取り出した。
「はい」
 掌に乗ってたものは、小さな瓶。中には透明な液体が入ってた。
「……なに、これ」
「渡そうかどうか、すごく迷ったんだけど、昨日の八神がどん底まで落ちてたから」
 同情されてたらしい。
 なんか腹立つような変な気分になった。
「だから何よ」
「だから、これ。あげる」
 思わず受け取ってしまった小瓶は、やけに軽かった。
「何、これ」
「惚れ薬」
「へ?」
 瞬時にからかわれた!と思った。キッと春日を睨みつけたら、困った顔をされたから拍子抜けした。
「信じられないのわかるけど、頼むから信じてよ。これは本物なんだ。本当に効果あるんだよ。保証する。絶対」
 真剣な顔で迫ってくる。思わずあたしは後じさった。
「わ……わかったわよ。で、これで何をしろっての?」
「目当ての彼に飲ませるんだよ。なんか飲み物とかに混ぜて」
「ええっ?」
「キミがそれで満足できるなら、そうして。使う使わないは八神の自由だから。選択肢はふたつ。薬を使うか使わないか。キミ次第だから」
 言うだけ言って、春日は背中を向けて教室から出て行った。あたしは茫然とたたずんで、春日がいなくなってしばらくしてから手の中の小瓶を見つめた。
 うそでしょ?
 信じられるわけない。けど、すごく気になる。
 小瓶から目が離せなくなった。

 次の日の朝、あたしは下駄箱に手紙を入れた。
 圭くんの下駄箱に。
 昨日、家に帰ってから勉強しないで書いた。何度も悩んで、どうしようって考えて、やっぱりやめようとかいろいろ思ったけど、結局書いた。
 勇気ふりしぼって、手紙を入れた。

 お話があります。どうか会ってください。放課後、体育館の裏で待ってます。八神瑞穂。

 簡単な手紙。
 鞄の中に入ってるのはスポーツドリンク。缶のよりちょっと大きい感じの。
 一度フタを開けちゃったけど、気にしないでくれる人だったら。
 あたし、期待してる。
 ものすごく。
 春日の言葉信じちゃってる。
 嘘かもしんないのに。
 だまされてるかもしんないのに。
 もし賭けの対象にされてたら、どうする?
 でも春日はそんなことしないって、不思議だけど無条件に信じてる自分がいた。
 理由なんてない。
 そんなのわかんない。
 けど、春日はそんな奴じゃないって何故か思ってる。

 教室に入ってから、春日の顔が見れなかった。
 怖くて。
 何が怖いのか、全然わかんないのに、怖かった。
 あの薬を使おうとしてる自分が怖いのかもしんなかった。
 ただドキドキとして放課後を待ってて、先生の声が耳に入んなかった。
 放課後が来て体育館裏に行ってみた。
 圭くんはいた。
 いてくれた。
 女の子に優しいの知ってるし。
 誰にでも優しいのも知ってたけど。
 それでもなんか、嬉しかった。
「ごめんね、何度も」
 そう言って圭くんの前へ走った。
 鞄の中さぐって、スポーツドリンク差し出した。
 圭くんはちょっと不思議そうにあたしの顔を見て、戸惑った感じでそれを受け取ってくれた。
「これ、飲んで。なんか、ひとつでもいいから役に立ちたかったの。だから、飲んで。迷惑かもしんないけど」
 まっすぐ顔見れなくて、真っ赤になってうつむいてた。
「今?」
 圭くんが訊くから、あたしはうなずいた。しっかりとうなずいた。
 きっとフタを開けた形跡見つけて、戸惑うかもしんない。そう思ったのに、圭くんは何も言わずにスポーツドリンクに口をつけた。半分くらい一息で飲んだ。
「……圭、くん」
 跳ね上がる心臓。期待と猜疑心が両方まじって、全身を駆け巡る。
 圭くんは不思議そうな顔で、あたしを見た。
「オレ、こないだキミのこと、フッたよね? なんであんなことしたんだろう?」
 めまいがした。
 効果てきめん? うそでしょ?
 何かの冗談でしょ?
 圭くんまでグルなの?
 いろんなことが頭の中でぐるぐると飛びかっていったけど、圭くんは少しもイタズラしてる顔じゃない。じゃなきゃ、よっぽど演技力があるとか?
「ホントはオレ、前からキミのこといいなって思ってたんだ。だけどまさか、キミの方からあんな風に言ってくるなんて考えてなかったから、きっと動転しちゃったんだな」
 なにこれ。マジ?
 そんなことが現実にあるなんて。
 ハイテク進んでるこの時代に。
 うそぉ。
 ホントはこれ、夢なんじゃないの?

 結局この日、圭くんは家まで送ってくれちゃったりした……。

 次の日、あたしは春日にお礼を言った。したら、春日はちょっと妙な顔をした。
「本当に使っちゃったんだね……」
 がっかりされたみたいだった。そんな顔するなら、くれなきゃよかったじゃない。
 なんか少しだけ、心がブルーになった。喉の奥になんかつまったみたいに。
 圭くんは毎日あたしの教室に来てくれて、一緒に喋ったり、寄り道したり、ご飯食べたりした。すごく楽しくて、一ヵ月がアッという間に過ぎてった。
 あれから、あたしは春日とあんまり口きいてない。
 春日が避けてるのかもしんなかった。それともがっかりされたことで、あたしもがっかりしたのかもしれない。噛み合わない空気があたしたちの間にはさまっていた。
 それでもあたしは圭くんとの毎日を楽しく過ごしていた。友達からは羨ましがられたり、嫌味言われたりとか、いろいろあったけど気になんなかった。
 でもそんな楽しさは、突然ふつりと止まった。

 圭くんと過ごす毎日に、違和感を覚えてしまったからだった。

「明日から期末試験だけど、瑞穂の調子はどう?」
「……んー、かなり不調かもねー」
 勉強はあんまし得意じゃない。だからって赤点とるほどサイアクでもない。
 でも圭くんは学年十番内に入る成績の持ち主。ルックスだけじゃなくて、頭の出来もよかったりする。
 日曜日、一緒に入った喫茶店で向かい合わせにあたしたちは座ってた。
 圭くんがクスクスと笑う。
「勉強教えてあげるよ。わかんないとこあったら、言ってみてよ」
「ほんと? うれしー。教えてー」
「じゃあ、今日これから僕のうちに来ない?」
 あたしは喜んで圭くんのうちに行った。
 圭くんの家は一戸建で、生活レベルは普通くらいだと思う。家には圭くんのお母さんがいて、ふたりしてペコペコと挨拶なんかしちゃった。
 お父さんは休日出勤なんだそうで、忙しいんだなあって思っただけだった。
 仕事したことのないあたしには、仕事の大変さなんて全然わかんない。でもテレビとか雑誌とかで見かける働く人たちは、なんかすごく大変そうに見える。
 バイトすれば、なんかわかるかな……?
 圭くんの部屋で、勉強会ははじまった。本当に真面目に勉強だった。お母さんいるから当り前だけど、あたしはふと、頭のどこかに何かひっかかったのを感じた。
 圭くんはずっと優しかった。本当に優しかった。あたしのわがままなんかにも、付き合ってくれたりしたし、嫌な顔ひとつもしなかった。話題豊富で、たいくつしなくて、圭くんと一緒にいるのはすごく楽しかった。
 でもまだキスのひとつもしてない。
 喧嘩のひとつもしてない。
 そう思うのはただ、あたしがわがままなだけ?
 圭くんは本当に自分の意志で行動してるの?
 あんな薬使っておいて、今さら何言ってんのあたし。
 ……だって本当に効くとは思わなかった。
 そんな言い訳今さら通用しない。
 あたしはその状況に甘んじた。
 圭くんは。
 圭くんの意志はどこにあるの?
 どこからが本当でどこからが嘘?
 自分で蒔いた種のくせに。
「ねえ、圭くん」
 勉強教えてくれる圭くんの声をさえぎって、あたしは口を開いた。

「あたしのこと、本当に好き?」

 圭くんは笑った。優しく笑ってくれた。
「好きだよ。当然じゃない」
 そんなのは嘘だ。
 だってあたし、あなたにフラれたんだよ、あの時。
 春日のがっかりしてる顔を思い出した。
 あたしは、まやかしに飛びついた。本当にあっさりと。
 そんなあたしに、春日はがっかりしたんだ。

 家に帰ってから、あたしはすごく落ち込んだ。
 今ごろ気づくなんて……。あたしは圭くんの何がほしかったの?
 何を求めていたの?
 圭くんは薬に操られてる。
 操られてあたしを好きだと錯覚してる。
 よく考えてみれば、圭くんの反応はどこかおかしかった。
 優しいのに、必要以上接してこない。
 手もつないでなくて、なのにいつでも優しい。優しすぎる。
 圭くんの反応にはどこか違和感が伴ってた。
 目隠ししてたのはあたし。
 頭のどこかで知ってて、気づかないフリした。
 見ないフリしてた。
 ……見たくなかった。

 月曜日、期末試験の一日目。
 あたしは春日と久しぶりに話をした。
 試験の始まる五分前に。
「あんたのくれた薬、解毒剤はないの?」
 春日は驚いたみたいに目を丸くして、あたしのことジッと見た。
「……ない、けど」
 ひどく戸惑ってた。
「なんで、解毒剤が必要なんだ?」
「本当にないの?」
 春日の質問をさえぎって、あたしはさらに訊く。
「……ああ、ないよ」
 歯切れが悪かった。春日はなんか隠してる。
「なんでそんなこと訊くんだ?」
 逆に問い返してきたけど、あたしは違うことを訊いた。
「効力はいつまでなの?」
 春日が困ったように頭をかいた。
「期限なんかないよ。たぶん、一生」
「ええっ?」
 どういうこと!?
 あたしがびっくりして春日のこと見てたら、ますます困ったような顔をされた。
「一度体内に入れたら最後、死ぬまで効力は続くんだ。でなきゃ薬の意味ないだろ?」
 それはそうだけど……でも普通はそんなにもたないよ。
「いったいあの薬、どういう経路で手に入れたの? どこにあったの?」
「それは言えないよ。秘密。そういうきまりだから」
 なんなのそれは。すごく怪しいじゃない。
「誰のきまりなのよ、それって」
「言えないってば。俺が怒られるんだから」
「誰に」
 春日が逃げた。パッとあたしの傍から離れて、自分の席に着いちゃう。あたしは追いかけようとしたけど、ちょうどチャイムが鳴って担任が教室に入ってきたから、自分の席に戻らざるを得なくなった。
 数学の試験用紙がくばられたけど、あたしの頭は全然働いてくんなかった。

 たぶん、今日の期末は全滅だ。
 圭くんに丁寧に教わった部分も、あたしの頭がぶっ飛んじゃったせいで真っ白。
 春日の思わせぶりで意味ありげな言葉が頭の中、ぐるぐると回って忘れられない。
 帰り際につかまえて問い詰めようと思ったのに、春日には逃げられた。
 春日の言ったのは嘘じゃないと思う。
 だって最初にもらった薬は本当に効いたんだから。

 待ってくれていた圭くんと一緒に帰ったけど、心が沈んだまま戻んなかった。
 圭くんと話をするのも、顔を見るのもなんか辛かった。
 だからあたしの様子、思いっきりおかしかったと思う。
 でも圭くんは何も気づかなかったのか、それとも気がつかないフリしてくれたのか、わかんないけど、それについては何も言わなかった。
 途中で別れて家に着いた。自分の部屋に入って、あたしはため息をつく。
 制服から私服に着替えて、明日の期末のことも考えなくちゃとか思いながら鞄を開けると、中から折り畳んだ紙切れが出てきた。……手紙だった。

 あの薬をもう一度飲ませると、逆に働いて効力がなくなります。春日。

 簡潔な内容だった。
 あたしは手紙を握りしめたまま、ストン、と座り込んだ。
 いっ……いつの間にっ……。
 春日ってよくわかんない。何者なんだか。
 初めて会った時から不思議な感じがしてた。
 ……初めて会った?

 あたしの思考が止まった。
 春日に初めて会ったのはいつなんだろう。入学式?
 ちがう。
 進級した新しいクラスの中で。
 ちがう。
 そのとき春日はいなかった。
 どこにもいなかった。
 記憶違いなんかじゃない。
 覚えてないんじゃない。
 いなかった。
 やっぱり最初からいなかったんだ。
 春日は存在感がある。さらりとしてるのに、インパクトがある。
 だから気がつかないはずない。
 本当にいなかったんだ。

 あたしはもう一度、手紙を見た。ノート破って書いただけの、簡単な手紙。
 それから机の上に置いてある小瓶を見た。
 決心はかたまっていた。

 あの日の翌日から、春日がいなくなった。
 クラスの誰に訊いても春日のことを知っている人はいなかった。
 誰も覚えていなかった。
 春日がどうして姿を消しちゃったのか、わかんない。あたしには何も言ってくんなかったし、あのとき鞄に入ってた手紙にも書いてなかった。
 圭くんとのお付き合いをやめちゃった日から、春日はいない。
 圭くんのことはきっぱりと諦めた。その方がよかった。
 薬の力で無理して付き合わせちゃってゴメンネって心の中で謝った。圭くんは何も覚えていないみたいで、元に戻ってからはあたしの方には見向きもしなかった。
 辛かったけど我慢した。
 泣きたかったけど唇を噛みしめた。
 どんどん日数だけが過ぎていって、再び進級の時期が来た。

 新しいクラス。圭くんと一緒にならなくて、すごくホッとした。
 教室に入ってみると、知っている顔と知らない顔。
 ザッと見回しているうちに、ふと、なにかがひっかかった。
 何か感づいたみたいに席の中でこっちに振り向いたその人と、目が合う。
 こっち見て、笑った。
 春日だった。

「帰らなきゃならない用事があったんだ、あの頃。それで俺、いきなりいなくなったんだけど」
 帰る前にふたりで屋上に言って話しした。
 その用事の内容は明かしてくれない。
 春日はどこまでも謎のままだった。
「俺の残したメモ、見てくれた?」
「圭くんとは付き合ってないよ、今」
 春日は「そっか……」と言って、かすかに笑った。安心したような顔だった。
 再会してから、あたしは春日と一緒にいることが増えた。付き合ってるとか、恋愛してるとか、そんなんじゃなかったけど、なんか春日といると安心できた。
 春日がいったい何者で、なんであんな薬持ってたのかとか、いろいろ訊きたいことはたくさんあったけど、わざわざ口に出して言わなかった。あたしが訊かないから春日も言わなかった。でも一緒にいるうちに、だんだんそんなことどうでもよくなってきた。
 時期が来れば、春日の方から話してくれると思う。
 あたしはただ、その日が来るのを待てばいい。
 最近はそんな風に思う。
 今年が終わったら卒業のシーズンに入っちゃうけど、まだ春日の希望を全然聞いてない。
 もしかしたら、またどこかへ消えちゃうんだろうか。
 そんな不安はあったけど、まだここにいるから。
 今度は黙って消えないでよ、ととりあえず言ってみようと思う。

END