(初出:旧サイト 執筆日:1996年07月21日~?)
相沢に抱かれて以来、僕はカラダを売るのをやめた。
二度と彼には抱かれることがないかもしれない、そう思うと、自然にセックスを回避するようになっていた。彼の腕の感触や熱を忘れるのが嫌で。
だから結局、生活費を稼ぐために、僕はバイトを探した。
バイトはすぐに見つかり、昼間は働いて夜は必ず家にいた。
相沢が訪ねてくることはなかった。そうするうちに次の土曜日が来た。
相沢が来ることを願ってる自分がバカみたいで、情けなくて泣けてくる。あれから一週間が過ぎていた。その間、相沢は一度もうちには来なかった。
よく考えてみれば、当然のことだった。
相沢と僕は『中学の頃の同級生』でしかない。友情以上の関係じゃない。相沢が僕を抱いたのも事故のようなもので、二度はきっと望めない。キスしたのだって、相沢が状況に酔っていたせいだ。
期待する方が間違ってる。
土曜日の夜、僕は布団の中にいた。
特に理由はない。なにもすることがないだけだ。
よく見ると僕の部屋には何もなくて、冷蔵庫にはビールと簡単な保存食が入ってるだけだし、タンスとテーブルと布団があるくらいだ。しかも狭い。
テレビもないから、娯楽に走れない。本も家を飛び出してからは全然読んでない。
こうして僕はどんどんバカになっていくんだな。
そんなことを考えながらウトウトしはじめていた時だった。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
まず、考えられるのが新聞の勧誘。でなきゃ、NHKの集金。それも違えば、変なセールスマン。
それさえも違うなら。
僕は布団から這いだして、玄関に立った。覗き穴から見ると、そこに立っているのは相沢涼司だった。
僕は慌ててドアの鍵を開けた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、相沢の笑顔だった。
「久しぶり。連絡しようと思ってたんだけど、よく考えたらおまえんとこ電話もないだろ? 会いに来るにしても、なかなか平日は難しくてさ。無事に生きてたか?」
「……無事にって……おまえな」
相沢の皮肉が、妙に懐かしい気がする。
「また帰れとか言われるんじゃないかと思ったんだけど、どうしても気になるし。放っとくと、すぐ人間やめるような生活しそうで不安でさ」
口の減らないやつだ。
相沢はやっぱり遠慮なく部屋に入る。僕はそのあとについて行く。ちょっと涙腺が緩んだりはしたけど、ぐっとこらえた。
部屋の中を見るなり相沢は、すぐに布団を見つけた。
「……おまえ、こんな時間から寝るつもりだったのか?」
「そうだけど?」
時刻はまだ八時だった。
「例の仕事はやめたか?」
「……うん」
「そうか……よかった」
ほっとしたような声が聞けて、僕まで気分が落ち着いた。
「差し入れ持ってきた。何か作ってやるよ。夕飯、どうせまともに食ってないだろ?」
「まあね」
「まあね、じゃねえよ。食べろよ、ちゃんとっ」
そして相沢は台所に立った。僕は彼の背中をじっと見る。
本当に不思議だ。相沢はなんでこんなに僕にかまうんだろう。
手間ひまかかって大変なだけだと思うのに。
相沢は僕と夕飯を食べ、とりとめのない会話をしたりして、そのまま泊まる。僕には手を出したりしない。それでも別に構わなかった。寄り添うように一緒に眠れて、それだけでも僕はよかった。日曜には一緒に出かけたり遊んだりして過ごした。
土・日は僕にとって大事な時間になった。
そんな生活が始まって、三ヶ月があっという間に過ぎた。
いつの間にか僕は、ずいぶん健全な生活をするようになったなと思う。
相沢が僕に与える影響はすごいらしくて、見る間に健康モードになっていた。
季節はそろそろ冬になりつつあった。
何もない僕の部屋でも、さすがにストーブはある。だけどそれだけじゃ寒いから、冬の僕は毛布にくるまっている。
十二月の初頭、いつものように土曜日の夜に訪ねてきた相沢が僕を見るなり、あきれた顔をした。
相沢にはすでに合鍵を渡してあった。律儀に土曜の夜になると来てくれるので、自由に出入りすることを僕は許した。
「……おまえな。いい若いモンのする恰好じゃないぞ」
「寒いんだからしょーがないだろ」
ストーブがついていても、安いボロアパートだから隙間風が入り込む。僕は昔から寒いのが苦手だったから、毛布にくるまるのは仕方のないことだった。
いつものように過ごして、夜中の一時頃、布団の中で僕たちはたわいなく喋っていた。眠くない時は、こうして相沢とよく喋る。最初の頃にあった警戒心なんてものは、すでにない。相沢がこうして僕に会いに来てくれるだけでも、嬉しくてたまらなかった。
僕が寒い寒いを連発していると、相沢の反応がいつもと違った。
「あっためてやろうか……?」
思わぬ台詞にドキリとした僕は、思わず相沢の顔を見つめた。相沢は至極真面目な表情で、僕を見つめ返す。僕はなんと答えたらいいのかわからず、口ごもった。
だが次の瞬間には、相沢は笑い飛ばした。
「嘘々、なにマジな顔してんだよ、おまえも。冗談だって」
ばしばしと僕の肩を叩く。
だけど、相沢の視線が以前とは違うことに、僕は薄々気がついていた。僕を抱いた時でさえ、相沢はこんな目で僕を見なかった。キスした時でさえ……。
もしかしたら、という期待が僕の中に生まれた。
バイトは月曜から土曜まで、昼から夜までやる。平日の残業は請け負うけど、土曜日だけは断わっていた。それはもちろん相沢がうちに来てくれるからに他ならない。
バイトの内容は単なる店員。CDとビデオのレンタル屋だ。すぐ隣にはカラオケ屋が経営していて、若い客なんかが当然多い。最近どうも僕は評判になってるらしくて、女の客にウケるんだと他のバイト仲間に言われた。
平日の昼間にバイトするって言ったらフリーターかバンド野郎かサボリの大学生くらいのもので、普通学校か別の仕事持ってる人たちは土日バイトオンリーである。そんなわけで、平日バイトの僕はわりと重宝がられている。しかも「かったりぃ」とかであっさり辞めるのが多かったり、サボりながら働くやつとかがたまにいたりして、どっちかって言うと真面目に働いていた僕は店長にも好かれていたようだった。
相沢のことを思うと、つい、ちゃんと働いてしまうのだ。
バイト仲間ともうまくいってたし、仕事も順調で特に不満もなかったし、本当にそれまで問題なんて何もなかった。
火曜日の昼過ぎ、僕は通常通りカウンターに立っていた。店はだいたい正午過ぎてから開き、夜中まで運営する。平日の昼間はたいてい暇で、僕はその時ぼんやりと外を眺めていた。
すると出入り口の自動ドアの透明なガラスの向こうに、生活に疲れたようなオジサンが歩いて行った。刹那、僕の中で違和感が走った。心臓をいきなりつかまれたような違和感だ。僕と似たようなことを思ったのか、オジサンはハッとして店内を見た。……いや、僕を見た。
僕は急いで身をひるがえして、棚の方へと隠れた。
……遅かったかもしれない。
見つかったかもしれない。
鼓動が早い。どくどくいってる。
僕の中に染みついていた恐怖が、蘇る。
……あいつだ……!
なんで祝日でもない平日の昼間にこんなところを歩いているのか、わからないけど。
あいつだ。
見間違えるはずがない。
冷や汗が出た。
僕をひどい目に遭わせた、生活指導の……!
たしか、狭山とか言う名前だった。
僕は恐る恐るカウンターに出た。自動ドアの向こうには、奴の姿はもうなかった。
ホッとした。気づかれなかったんだ。
疲れたサラリーマンのような感じだった。けどまさか、生活指導の先生のくせして、こんなところをウロついてるなんてことがあるだろうか。……わからない。でも、他人の空似じゃない。
不安は消えなかったものの、そいつが戻ってくる様子はなくて、今日は無事に過ぎた。
バイト先を出て、ボロアパートに帰る。冬の夜道は寒い。防寒は徹底してるはずなんだけど、やっぱり寒かった。
まだ火曜日……相沢には会えない。いっそ、電話取り付けちゃおうかな。そしたら声だけでも聞けるんだし。土曜日までがすごく待ち遠しくて、すごく切ない。
相沢はわかってるんだろうか。僕がこんなに惹かれてしまっていることに。
僕はいったいどんな目で、相沢のこと見てるんだろう。それを考えてしまうと、少し不安になる。気持ちが目にあらわれてなければいいけど。
アパートの前に着いた時だった。
「……っ!」
いきなり口を塞がれて、僕はすぐ近くの駐車場へとひきずられた。
「……っ」
なんだ! なにが起きたんだ!
「騒がないでくれ」
「……っ!」
どくん、と心臓が恐怖に揺れた。
聞き覚えの……ある声だった。
「どうか……騒がないでくれ」
「……」
身体が、ふるえた。
尾けられてた……! 待ち伏せ? いつから。ずっと?
昼間から……?
あまりの不気味さに、僕は恐怖で身がすくんだ。
「久しぶりだなぁ……」
抱えこまれた身体。塞がれた口。
暴れて、叫べばいい。そしたら誰か……誰か。
ぶち切れて殴った時には僕の方が強かったんだ。……だから。早く。
「……あれからね、きみが学校からいなくなってしまって、わたしは実にさみしい思いをしたんだよ。あの時には怒りの方が勝って、ついきみを退学に処してしまった。後悔しているよ。……きみのような綺麗な子はそうそういなくてね。さみしさのあまり、きみと同じ生徒をつくったんだが、学校にバレてしまってね。呆気なくクビだ。たいがいが、耐えきれなくなって学校から去っていくんだが、今まで公にする生徒もいなかった。悪いことは長つづきしないものだ」
……なにを、言ってるんだろう、こいつは。
僕はなにを黙っておとなしく聞いてるんだろう。
「妻に離縁を持ち出されてね、子供と一緒に去って行ってしまった。仕事を失くした男には用がなかったのだろうね。絆なんてものはあっさりと切れてしまうんだなぁということが、よくわかったよ。……きみとは二度と会えないものと思っていた。初めは……見間違いかと思ったよ。だが、自分の抱いたものを間違えるほど愚かじゃない……」
ぞくり……と全身に鳥肌が立った。
嫌悪感が僕の中を駆け巡った。
首筋に、息がかかる。
荒い、息が。
逃げ……なきゃ。
どこへ?
部屋に。僕の部屋に。アパートはだって目の前にあるじゃないか。
逃げて、どうするんだ?
待ち伏せされる。昔呼び出されたみたいに。
部屋から二度と出られなくなる。
アパートの部屋を知られちゃいけない。
じゃあ、どうしたら。
暴れて、ぶちのめせばいい。
「……変わってないな……きみは。細くて……いや、ますます細くなったな。家はこのあたりじゃなかったはずだ。なぜこんな場所にいる……?」
荒い息をまじえた唇が、首筋を這った。
僕は思わず、強くまぶたを閉じた。
隙を……隙を見つけなきゃ。気絶するほど殴ればいい。そうすれば逃げられる。
口から手がはずれた。その手は次に僕のズボンのファスナーをさげようとする。
「や……っ」
僕はすかさず抵抗して、肘を奴の胸に打った。
「うっ」
どうやら命中したらしくて、奴が呻いた。僕は逃れようともがいたが、奴に羽交い締めにされた。暴れたけど逃げられなくて、腕をねじまげられた。
「っ! 痛いっ! いたっ……!」
「先生の言うことは聞くものだ」
「……せっ……じゃな……っ」
言葉にならない。あまりの痛みに涙が出てくる。
ガッと腹部を膝で蹴られた。とたんに僕は咳込む。地面に膝をついて腹を押さえていると、奴に肩をつかまれて地面に倒された。
咳は止まらなくて、仰向けにされるとすごく苦しい。
「……はっ……ぐ……っ」
「先生は今、とても心が病んでいるんだ。きみに癒してもらいたくてね」
いやだ。
「きみを見つけた時には全身に奮えが走ったよ。あんまり嬉しくて……」
ズボンのファスナーをおろされた。苦しくても僕は奴を押し退けようと必死になる。すると奴の怒りを買ったらしく、僕はうつぶせにされた。背中を片膝で押さえつけられ、ズボンと下着があっさりと取り払われた。
「……いや、だっ……やめ……っ」
奴のスボンのファスナーをおろす音が聞こえて、全身に戦慄が走った。背中の膝がなくなり、腰をつかまれた。身体を引き裂かれる痛みが襲いかかった。
「あっ……やっ……」
内臓が圧迫される。
「……ひっ……」
セックスになんか慣れてた僕だけど、全然気持ちよくなんてなかった。こんな事態になったことが恐ろしくて、逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。それでも奴は容赦なく突き上げてくる。生徒指導室での光景がフィードバックする……。
僕の中で奴が果て、そうしてやっと解放された。
起き上がって殴って蹴って再起不能にしてやりたいくらいだったけど、僕はまるで壊れた操り人形のように手足が重くなっていて、動かなかった。頭のどこかがこの状況を受け入れてなくて、現実じゃないと思い込みたがっていた。
奴は動かない僕の頭を撫でた。
「久しぶりのものはよかっただろう。また気が向いた時に会いに来るよ」
狂ってる。
こいつ、狂ってる。
こんな行動は異常だ。そうとしか思えない。
何もかも失くして狂ってしまったんだ。そうに違いない。
どくどくと鼓動が鳴る。僕は息をひそめた。
奴が立ち去ってしばらくして……やっと僕は起き上がった。
身体が自分のものではないような気がした。ふるえの止まらないギクシャクとした手つきで、乱れてしまった服を整えた。ふらつく足をなんとか踏ん張って、奴が本当にもういなくなったかどうか周囲に気をくばって、ようやくアパートの僕の部屋へと辿りついた。
安いアパートだけど、一応風呂付の部屋を選んでいて正解だった。僕は部屋の鍵をかけて、確認をして、それから急いで風呂場へ駆け込んだ。しつこいくらい身体を洗った。湯船にのぼせるほど長い間浸かった。それでも身体のふるえは止まらなかった。
ついこの間まで平気でカラダ売ってたくせに、なに神経質になってんだよ僕は。
そう思ってみるけど、やっぱり駄目で……相沢の顔を思い出すと、胸がズキズキと痛んで僕は今にも死ぬんじゃないかと思った。
涙腺が緩んで、涙が出た。
相沢にすごく会いたかった。