DESIRE 30

(初出:旧サイト 執筆日:1999年10月16日)

 しばらくしたら落ち着いた。相沢といることにも慣れた。
 相沢はすごく何かを訊きたそうな顔をしてたけど、僕の状態が不安定なせいなのか、それ以上突っ込んではこない。
 相沢はベッドの上に座っていて、僕は椅子に座っていたけど、どちらも喋らなかった。
「ご……めん、自分のコントロールができなくて」
 互いにずっと黙ってるのも何か変で、僕はとりあえず謝った。
「謝る必要ないよ。おまえが悪いわけじゃないだろ」
「……ん、でも、本当にあいつには注意してほしいんだ。また、何するかわかんないから」
「ああ。気をつけとく」
 本当は詳しい話を知りたいに違いない。だけど僕の中では何も整理がついてないから、口に出して説明することが出来なかった。でも、いつかは話さなきゃならない時が来るんだろうな……。
「何かあったら、ちゃんと俺に教えろよ」
「……うん」
 頷いてはみたけど、話せるだけの精神力が僕にはなかった。
 「明日また来るね」と言い残して病院を後にした僕は、家に帰るのも怖くて、とりあえず食事するために店に入った。
 相沢の骨折の犯人が鮎川であることは言えたけど、手紙の件とか僕の身に起こったことは結局言えなかった。それを教えたらきっと、相沢は治ってないまま退院するとか言い出すかもしれない。
 注文した物が来るまで、ぼんやりと外を眺めていた。僕の座っている場所は歩道に沿ったガラスの前で、中からよく見えるのと同時に外からもよく見える。不思議なことに誰も僕には気づかない。外を歩いている人たちは店のガラスの向こうなど見ることなく、進行方向しか見ていないか、あるいは一緒に歩いている相手しか見ていない。もしも僕が超有名な芸能人か何かなら、きっとそんなわけにはいかなかっただろう。たちまちパニックが起こって食事どころじゃなくなるに違いない。
 そう考えてみると、今の僕の立場からさらに上へ行くのはマズイような気がしてきた。自己防衛とか保守的とかそういう意味で考えると、僕は今の立場のままそっと仕事をやめて身を潜めた方が正しいのかもしれない。そう言えば昔そんな雑誌モデルもいたよね、程度の認識度でみんなの記憶から忘れられていくのかもしれない。
 今ならまだ引き返せる位置にいる。
 このまま普通の人として埋もれたい。
 こんなことを考える僕は欲がないんだろうか。
 高校を中退して大学進学も諦めた僕は、そんな状態でこれから何をするって言うんだ。ただのバイト生活で定職にもつかずに? 景気の悪い昨今、きちんと大学卒業したってまともな就職口も見つからないような今の時代。その世界で僕に何ができるって?
 ふ、と。
 ガラスの向こうで歩いていた人と目が合った。
 反射的にそれが紀ノ瀬祐汰だとわかり、思わずギョッとした。
 紀ノ瀬が何をしたわけでもない。だけど、彼の存在は否応なく鮎川を思い出させるので心臓に悪かった。ガラスの向こうで何か言いたげに足を止めた紀ノ瀬と、何故かしばらく見つめ合ってしまい、仕種でそっちへ行っていいかと紀ノ瀬が言うので、僕はためらいながらも頷いた。
 紀ノ瀬祐汰が向かい側の席に座ったのと同時に、僕が注文したパスタが来た。ついでのように注文を聞くウェイトレスに、紀ノ瀬はウーロン茶を頼んだ。
「あ、俺に遠慮しないで食べていいよ」
 紀ノ瀬は僕にそう言うと、少し何かを考えるような顔をした。視線はどこか別の場所を眺めているような、そうじゃなけりゃ何も見ていないような感じだった。ウーロン茶がテーブルに届くと、ハッとしたように現実に帰って来た。
 パスタを食べる僕をためらうように見て、少し考え、それから意を決したように口を開いた。
「鮎川巧実の話、していい?」
 いま僕の一番聞きたくない名前を出されて、つい反射的に眉をしかめた。
「昨日、なんか変な感じしたから。鮎川、きみに執着してるような気がしたんだ。目とか、空気とか、いろいろなものが」
 確かに鮎川は僕に執着してるかもしれない。
 聞きたくない気持ち半分の状態のまま、僕はパスタを食べながら一応耳をかたむけた。
「あいつがきみに何をしたのか、そこまでわかんないけど、すごく嫌な空気感じたから、俺も不安になって。あいつ……鮎川って、普段見せる顔と違う顔、裏に持ってるの俺知ってたから。実は、幼稚園のころから知ってて。昔はそんな仲良かったわけじゃないし、クラス違ってたときとか、まったく交流なくなってた時期もたくさんあったんだけど、あいつが何か変な歪み方してるような気はしてたんだ。だけどあいつ、そういうの普段あんまり見せなかったから、俺もよくわかんなくなってて」
 紀ノ瀬は考えながら口を開き、僕は彼がいったい何を言いたいのかわからなくて、無言のまま聞いていた。
「それでね、たぶんあいつが最初に傷ついた時、あの時からあいつ変な方向に歪んでったんだと俺は思ってる」
 ……傷?
「小学五年生のころの話なんだけど、俺そのとき全然知らなかったんだけど、あいつの両親すごく不仲で、家庭環境サイアクだったらしいんだ。裏で不倫してたとかで、すごい喧嘩になって、離婚することになったんだけど、どっちも子供に関心なかったらしくて、両方からいらないって言われちゃったんだ。でも裁判で父親に引き取られることに決まって、すぐに新しい母親が来て。あいつその人とうまくやれなくて、高校進学と同時に自活したらしいんだ。俺は違う高校だったから、大学で再会するまでずっと会ってなかったんだけど、最近なんか……いろいろと変だなって思うようになって」
「……詳しいね」
「前にコンパ帰りに酔ってた鮎川が自分で言ったんだ。親の離婚のこととか再婚のことは、昔クラス内でいろいろ噂になってたこともあって、ちょっと知ってたんだけど。酔ってなかったら、あいつ、そんな詳しい話たぶんしなかったと思う」
「そう」
 鮎川が不幸な境遇の中で育って可哀想かもしれなくても、僕の心は動かない。ますます気持ちは冷めていき、苛立ちまじりに紀ノ瀬の顔を見た。それで僕にどうしろと言うのだろう。
 紀ノ瀬は少しの間、無言でウーロン茶を飲んでいた。
「……鮎川の家庭環境なんて、興味ないよね?」
 僕が何も反応しないせいか、紀ノ瀬はちょっと笑ってそう言った。
「あいつが何をしたのか、訊いていい?」
「聞いて、それでどうするの」
「あいつが何か迷惑なことしてるんだったら、俺それを止めるし、怒ってくるけど」
「そんなことできるくらい、仲いいの?」
「わかんない。俺は近くにいるつもりなんだけど、あっちがどう思ってるかは」
「根は深いよ。それでも?」
 正直な気持ち、紀ノ瀬祐汰に話して止められる問題だとは思わなかった。それでなんとかなるなら僕も有り難かったけど、たぶん無理だろう。
「根が、深いの?」
 紀ノ瀬は少し驚いたように目を瞠り、僕を見つめた。僕はその目を見返して頷いた。
「深いよ。それに、ここで話せるようなレベルじゃない」
 店の中には人がたくさんいて、こんな場所では絶対に話せない。
「え、じゃあ場所変える?」
 紀ノ瀬が真顔で言った。
「どうしても聞くの?」
 少し意地悪かなと思いながら、僕は訊いた。
「うん。ここまで関わったら、ちゃんと知ってないといけない気がするし」
 そんな言葉が出てくるほど、紀ノ瀬は関わっていただろうかと考えながらも、僕は席を立ち、店を出ることにした。
 どこまで話せばいいなのかなんてわからない。そもそも紀ノ瀬がどこまで信頼できるのかもわからないし。
「この近くにでっかい公園あるの俺知ってるよ。広いから逆に人に話聞かれにくいよ」
 紀ノ瀬がそう言うので、僕はついて行くことにした。とりあえず彼が危険でないことは確かだと思う。
 公園の中に入って噴水の前を通り過ぎ、思っていたよりも閑散としているベンチにふたりで腰掛けた。紀ノ瀬の言う通り、確かに広かった。全部まわるのに結構時間がかかりそうだ。話に聞いたことあるような気はするけど、ここに来るのは初めてだった。
 店にいる時よりも開放的な気分になる。木々に囲まれてるせいか妙に安らぐ。全部話してしまってもいいような気になるけど、さすがにそれは出来ない。
「前に、旅行で変な騒ぎあったろ? 差出人不明の手紙が置いてあって」
「それが鮎川だったの」
 僕は頷いた。
「それだけじゃないんだ。僕のアルバイト先……モデルの仕事してるとこにも変な手紙を寄越してきた。それに、高校のころから僕を知ってたらしいんだ。卒業アルバムにも写真が残ってたから嘘じゃないんだと思う」
「そんな前から?」
 紀ノ瀬は本気で驚いたようだった。
「はっきり言ってしまえば、鮎川のやってることはストーカー行為だよ。いくら好きだと思われてても僕は不快だし、彼のやることは嫌なことばかりだ。……それに」
「それに?」
「相沢が交通事故で怪我をした。その時の車を運転してたのは鮎川だ。本人の口からはっきりと聞いた。ここまでされて、彼に好意をいだけと言う方が無理だ」
 紀ノ瀬は心底から戸惑うような顔を見せた。彼が思っているよりも事態は重く、深刻なんだ。
 紀ノ瀬が立ち上がった。
「俺、鮎川つかまえてくる。あいつ絶対、本当のことなんか言わないと思うけど、その話が本当ならとんでもないことだよ。これ以上おかしな方向に行かないようにしなきゃ駄目だ」
 焦るようにその場から立ち去った。紀ノ瀬祐汰には何の責任もないはずなのに、まるで責任感じてるみたいにいなくなった。
 僕は、公園のベンチに取り残されて、戸惑うように紀ノ瀬の去って行く背中を見ていた。あまり期待してなかったはずなのに、もしかしたら紀ノ瀬がなんらかの答えをつかんできてくれるような気がした。

 マンションに帰った僕は、部屋に入るまで鮎川がいないかどうかを探った。鮎川の気配はどこにもなく、僕はほっとして鍵をはずしてドアを開けた。
 その日は何事もなく、紀ノ瀬から連絡が来るようなこともなかった。僕はひとりきりじゃ広すぎて落ち着かない部屋の中で眠り、翌日にはバイトに出かけた。
 ファミレスのバイト先に、尾崎さんの姿はなかった。時間が擦れ違ってるんだろう。最近、こういうの多いな。……尾崎さん、忙しいのかな。
 何も考えずに一日働いた。鮎川の影に僕は怯えていたけど、今日はまったく姿を見かけずに済んだ。
 紀ノ瀬がつかまえて、何か言ったんだろうか。
 そんなことであっさりと諦めるようなやつだろうか。
 帰る途中で病院に寄った。鮎川にされた嫌なことは記憶から消去できなかったけど、相沢に会う時にはなるべく忘れることにした。
 それから数日、驚いたことに鮎川から何のリアクションもない。変な手紙も来ないし、鮎川本人も姿を見せない。紀ノ瀬祐汰がうまく事を運んでくたれんだろうかと考えながら、毎日の仕事をこなし、さらに日数が経って相沢が退院した。

 部屋に相沢が戻って来ると、急に世界の色が変わったような気がした。僕は心底からホッとして嬉しくなって、やけに高いテンションで相沢と食卓を囲む。相沢はまだ松葉づえを必要としていた。でも夏休みの間には、よくなるだろう。
 鮎川から受けた傷は消えないままだったけど、相沢が傍にいてくれてれば大丈夫な気がしてきた。
 でも、当の相沢は少し重い表情をしていて、退院したのに完全に喜べていないみたいだった。
 悩んでるような顔だけど、その内容は言わなくて、僕もまた訊こうとしなかった。
 何に悩んでいるのか、なんとなくわかったからだった。
 突っ込んで来た車を運転していたのが鮎川だったこと。どうして彼が、そんな真似をするまでに至ったのか。入院してた時からずっと、相沢は何度も僕に問いかけたそうな顔を見せては、黙り込む。訊くに訊けない、みたいな。
 だから僕は少しずつ、相沢に喋らなきゃと思った。
 食事を終えた後、退院祝いのプレゼントを渡して、相沢が嬉しそうに笑ったのを見た。けど、すぐにその表情を曇らせるような言葉を、僕は少しずつ吐き出した。
「相沢にはずっと黙ってたんだけど、入院してる間にいろんなことが発覚したんだ」
「いろんなこと?」
「手紙の主がはっきりした。それも鮎川だった」
 相沢が驚いた顔で僕を見つめた。少し混乱したような表情だった。
「なんのために?」
 最もな質問に、僕は即答できなかった。心の準備をして、少しずつ話していかないと、僕の方がこわれてしまいそうだからだった。
「卒業アルバムに、鮎川の顔があったよ。高校のころの僕を知ってて当たり前だった。クラスは一緒になったことなくて、僕は彼の存在を知らなかった。でも彼は僕が高校時代、どんな状況にいたのか、すべて把握してる」
「だからって、どうして変な手紙を寄越すんだ? あれはまるで……」
 相沢が急に黙り込んだ。一呼吸置いて、また口を開いた。
「……鮎川は、悟瑠のことが……?」
 認めるのは嫌だったけど、僕は頷いた。
「うん。だけど、あんなの好きなんて言えない。あいつはたぶん、好きだと思い込んでるだけで、本当に好きなわけじゃない。こんなストーカーみたいな真似、本当に相手のこと想ってるんだったら絶対にしない。あの手紙の内容、僕を痛めつけることしか考えてない感じだったし、吐き出す言葉のすべても、好意なんかじゃない」
「なにがあった?」
 相沢が問いかけてきた。
「鮎川となにがあった? なにを言われた?」
「たとえばどんな片想いしてたって、好きな相手に睨まれたり、嫌われたり、憎まれたりしたら悲しくなるのが普通の感情だよね。あいつにはそれがないんだ。開き直って、悪いこと何もしてないって顔で笑うんだ。だから怖くて……毎日びくびくして、あいつが来ないこと願って、相沢が早く帰って来てくれることばっかり考えてた」
「来たのか、ここに」
 僕は頷いた。急に涙腺が緩んできて、涙が出た。我慢しなきゃと思ったのに、喋っているうちに止まらなくなった。
「ここに来て、どうした? なにがあった?」
「……ごめん。言えない」
 溢れてくる涙を止められなくて、うつむいた。
「……言えない……」
 相沢の腕が僕を引き寄せて、ぎゅっと抱き締めた。
「ごめん、悟瑠……。もういいよ。苦しくて言えないなら、もういい。もう何も言わなくていいから……」
 優しい腕だった。僕はもうホントにこの腕がなくては生きていけないと思った。
「ずっとひとりにして悪かった。傍にいてやれなくて悪かった。不安にさせて……俺も原因だよな。あの小旅行に参加しなきゃ、悟瑠はあいつと出会わなかったし、今こんな風に泣くこともなかったんだ。ごめん……安易に小旅行に参加したせいで……」
 違う。
 違うんだよ、相沢。
 小旅行は原因じゃないんだ。手紙はもっと前から来てたし、鮎川はだいぶ前から僕のことを狙っていた。小旅行は単なるきっかけで、遅かれ早かれ、僕は鮎川と出会ってたんだ。
 相沢は悪くないんだよ……。
 原因は僕にあるんだ。
 高校の時に、脅されてたとはいえ、カラダを許したこと。
 高校中退した後に、カラダを売って生活してたこと。
 鮎川が僕を犯していいと判断した要因は、そこにあるんだ。
 だから、この状況を作った理由の半分は、僕なんだ……。
 どこまでも、僕の過去は食いついてくる。忘れようとしても新しい生活をしようとしても、つきまとってくる。
 人生を一度投げた代償は……大きかった。

つづく