百年ノ恋

(初出:ゆいかromance 初掲載日:2001年09月24日)

 忘れることの出来ないあの日のこと。
 中学二年の夏。
 樫槻美幸(カシギ・ヨシユキ)は、興味本位な理由から校内の不良生徒に輪姦された。
 たいしたきっかけがあったわけではない。彼らを怒らせるような真似をしたわけでもない。
 ただ樫槻は、性格はごく普通の元気な少年ではあったが、その辺にいる男子生徒よりは容姿端麗で、線が細くて色白で、少女めいた印象を周囲に与えた。
 ただそれだけの理由で、放課後の体育館裏で複数の男をねじ込まれることになったのである。
 欲望だけぶちまけて面白い遊びでもしたように笑いながら去っていく声を聞きながら、樫槻は起き上がることもできずに、ただ放心したように動かなかった。

 自宅に帰って来ないと知らされた辰巳茂人(タツミ・シゲト)は、真夜中にも関わらず中学校へと忍び込み、とにかく樫槻を探した。他に思い当たる場所は既にまわっていたが、どこにも樫槻はいなかったのだ。当然、友人たちにも電話をかけまくった。だが誰も樫槻の消息を知らないのだ。
 まず教室を探した。樫槻の鞄は残っていた。
 その瞬間、辰巳の背中にぞくりと寒気が走り、樫槻の鞄を腕に抱え込んだまま校舎の中を走りまわった。結局、校舎のどこにも見つからず、辰巳は外へ出た。
 体育館の方へと近づいた。まずはその周辺からと思い、ぐるりと歩いた。真暗闇の中、体育館の裏でもぞりと動く影を見つけた。懐中電灯を持ってきていた辰巳は、焦りながら明かりを向ける。制服に包まれたままぐったりと横たわっている樫槻を見つけた時は、全身が総毛立った。発見した喜びと、異常事態が発生しているらしい気配に寒気を覚えたのとが、同時に辰巳を襲ったのである。
 恐る恐る歩み寄った辰巳は、そっと樫槻の傍に膝をつける。
「……樫槻?」
 驚かさないように小声で呼んだ。樫槻は瞼をゆるく動かしたが、辰巳が肩に手を置くと過剰なほどビクリとした。
「樫槻、俺だよ。辰巳」
「……たつ、み……?」
 樫槻の声は驚くほどかすれていた。起き上がろうとしないので、辰巳が手を貸す。だが樫槻は嫌悪感でも覚えたように辰巳の手を振り払った。突然の出来事に動揺した辰巳は、戸惑うように樫槻を見つめる。
「……なにが、あったの?」
 辰巳が問いかけても、樫槻は黙って首を振るだけで埒があかなかった。しかしそのままふたりで座っているだけでは仕方がないので、辰巳は樫槻に「帰ろうよ」と持ちかける。樫槻はやはり左右に首を振り、膝を抱え込んで顔をうつむかせた。
 辰巳はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、樫槻の家へ連絡した。無事に樫槻が見つかった話をしてから、しばらく一緒にいるから帰るのはだいぶ後になることを伝えた。
 樫槻が座り込んでいるすぐ隣で、辰巳も黙って座った。彼がなにも言いたくないのなら、辰巳もこれ以上はなにも訊けない。ただ寄り添うように傍にいた。
 やがて空が白々としはじめた。ああ……朝か、と辰巳は心の中で思う。樫槻は眠りもしないが喋りもせず、じっとしたまま動かない。
「……樫槻、朝だよ。もう帰ろうか」
 辰巳が言うと、樫槻はようやく頷いた。周辺が明るくなってから改めて見た樫槻は、ひどく憔悴していて見ているだけで痛々しい感じだった。なにがあったのか辰巳は知りたくてたまらなかったものの、訊かれることを拒絶する樫槻に無理強いはできなかった。
 その日をきっかけに、樫槻は口数が減り、以前のような活発さが影をひそめた。

 辰巳が校内で妙な噂を耳にしたのは、中学三年になったばかりの時だ。
 その日、樫槻は熱が出たと言って休んでいて、辰巳は他の友人たちと一緒に昼食を摂っていた。教室の一箇所に固まって、持参した弁当を食べ始める。三人でいたのだが、そのうちの一人が変なことを言い出した。
「なぁ……樫槻のことなんだけど」
 辰巳は敏感に反応して顔をあげる。
「樫槻?」
「うん。あいつ中二の途中から変になったじゃん。暗くなったっつぅか。盛り上がんなくなったつぅか。……俺、変な話聞いちゃったんだけど……」
 そう言ったきり口ごもったので、辰巳は促した。
「変な話ってなんだよ?」
「俺が見たわけじゃないよ? 友達が見たっつったんだよ。だからマジ話かどうかは俺にもわかんねぇんだけどさ」
「だからなに?」
 辰巳はわずかな焦りを覚えながら問いかける。樫槻があの日以来ずっとおかしいのは知っていた。だが未だになにがあったのか、辰巳には教えてくれない。何度も問いかけようと思っていたのだが、きっかけをつかめなくて断念していた。
 今は、樫槻に関することなら何でも聞きたい。
 辰巳の真剣な様子に、相手は言いにくそうにしたのだが、意を決した様子で口を開いた。
「あいつ公衆便所してるって」
 辰巳は一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
 意味すらわからない。
「……なに、それ?」
「聞いた話だからさ。そいつの話ではさ、樫槻がうちの学校の不良連中に囲まれてて、そん中には卒業生とかも混じってて、裸にされて犯されてたって」
 辰巳は箸を落とした。
 頭の中が真っ白になる。
 言われた内容が脳裏で浸透するまでに、ひどく時間を要した。
「……嘘だ」
「辰巳が信じらんないのはわかるけど、でも見たって」
「嘘だ!」
 ガタンっと音を立てて辰巳は椅子から立ち上がった。激しい怒りに包まれる。
「樫槻がそんな……そんなことするわけないだろっ」
 辰巳は教室中の視線を浴びていることにも構わず大声で怒鳴り、そのまま背中を向けて教室から飛び出した。そんなことあるはずがない。そう思いながら廊下を走り、階段の踊り場まで行くと足を止めた。
「……あの日」
 中二の頃、体育館裏でぐったりと横たわっていた樫槻。
 制服に身は包まれていたが、その様子は明らかにおかしかった。
 なにがあったのか、今でも教えてもらえない。
「……まさか」
 辰巳は何度もまさかと呟き、かぶりを振った。動揺のせいか軽い眩暈すら覚える。踊り場の壁へよろめくように背中をつき、そのまま頭を抱えた。ずるずるとしゃがみ込む。
「嘘だ……」
 うわごとのように辰巳は呟いて、今すぐにでも樫槻に会いたくなった。
 会って真相を確かめたい。

 樫槻は自宅のベッドの中で寝返りを打った。痛みを訴える下半身に低く呻き、熱のせいで熱い身体に嘆息する。
 慣れないものだなと思う。こんなことは一度や二度ではなかったのに、身体も心もまるで慣れてはくれない。変わらない苦しみに痛めつけられ、いっそのことこの世から消えてしまった方が楽になれるのではないかと考えたことも何度かある。
 誰にも言えなかった。
 誰にも言えるはずがない。
 幾つもの欲望を受け入れさせられた身体。あの生々しい感触を忘れることなどできない。代わる代わる数人もの欲望をつきたてられて、激しく揺さぶられた。泣こうが喚こうが逆らおうが、すべて関係なくねじ伏せられて押さえつけられて、まるで玩具のように扱われる。誰も樫槻のことなど考えてはくれない。面白がっている連中ばかりが、嘲笑を含めた視線と罵倒で樫槻をさらに痛めつけた。
 なんでこんなことになったのか、樫槻にはわからない。
 一度ターゲットにした獲物は、そう簡単には逃がさないということなのかもしれない。

 辰巳が樫槻の前に現われたのは、夕方になる頃だった。
 熱も幾分さがって、ベッドの中で起き上がった樫槻を、辰巳は神妙な顔で見つめた。やつれたような、ひどい顔色をしている。だが樫槻は、何事もなかったように辰巳に笑顔を向けた。
 辰巳は何度も真相を問いかけたかった。しかし、今でなくてもいいのではないかと考えてしまい、結局言えずにいた。なにもこんな熱を出して寝込んでいる時でなくてもいいではないか。
 辰巳は唇を噛み、ひとつだけは言っておかなくては考えた。
「樫槻……」
「ん?」
「俺は絶対に樫槻の味方だから。なにかあったら俺には言って欲しいんだ」
 樫槻は一瞬真顔になり、数秒間止まった。それからかすかに笑うと、小さな声で言う。
「さんきゅ。でも平気だから」
 遮断される。
 踏み込めない。
 辰巳は一瞬苦痛から涙ぐみそうになったが、必死でそれを抑えつけて平常心を保とうとした。校内で聞いた話を信じたわけではなかったが、あながち嘘とも言い切れないような雰囲気が、樫槻にはある。崖っぷち寸前の場所で必死で立っているような、そんな危うさがある。
「マジで味方だから。絶対に俺は裏切らないから」
 辰巳がなんとかそれだけ言うと、樫槻は少し安堵したように笑った。
「おまえからそう言われると、なんか嬉しいな」
 ここでもっと押せば、本当の話を引き出せたかもしれない。そんな風に辰巳は思ったが、無理強いはできなかった。

「樫槻ちゃん、もうガッコ出て来れるようになったんだ。回復早いねー」
 揶揄するような声が、樫槻の傍で聞こえた。
 二日間休んだ後、普通に朝から登校してきた樫槻を、校門のところで見つけた男子生徒が声をかけたのだ。校内でもいい噂を聞かない、斑条圧久(ハンジョウ・アツヒサ)という中学三年生。樫槻と同じ学年だ。
 以前から先輩の不良仲間の腰巾着のようにくっついていて、些細なこともすべて情報提供してしまうような性格だ。だから今日も、樫槻が登校してきたことでも報告するのだろう。醒めた気持ちで樫槻はそんな風に思った。
 無視するように歩いていたら「待てよ」と肩をつかまれた。
「シカトかよ。いい度胸してんじゃん」
「離せよっ!」
 樫槻が反射的に振り払うと、斑条はあらかさまに怒りを表面に出した。
「んだよ、てめぇっ」
 斑条が樫槻につかみかかろうとしたその時、庇うように伸ばされた手が、樫槻の肩をつかんで横によけさせた。驚いた樫槻が顔をあげると、傍に立っていたのは辰巳だった。
「辰巳……」
「二対一じゃ分が悪いよね。あっちに風紀委員もいるし。マズイんじゃないの」
 辰巳が冷静な口調でそう言うと、斑条は軽く舌打ちして、面倒そうに立ち去って行った。
 辰巳は樫槻に向き直ると、冷静な声のまま問いかける。
「なんでああいうのに絡まれるようになったの」
 樫槻は反射的に顔を背けた。苦痛を覚えるような表情をされて、辰巳はまた訊けなくなる。本当はもっと問い詰めて、すべてを吐き出させてしまいたい。
 ふたりは黙り込んだまま歩き出し、そのまま教室へ向かった。辰巳と樫槻はクラスが違う。同じクラスになったことがあるのは、初めて出会った一年生の頃だけだ。だが、昼休みはいつも一緒にいたし、家も近いから休みの日などよく遊んだりしていた。
 だがそれも、樫槻が変化してからは数も少なくなっている。
 辰巳は内心で嘆息しながら、隣を歩く樫槻を眺めた。樫槻はどことなく沈んだ表情をしていて、問いかけるに問いかけづらい雰囲気だった。

 放課後になると、辰巳はすぐに樫槻のクラスへ向かった。一緒に帰ろうと思ったのだ。最近は樫槻が速効でいなくなったりするので、せめて今日こそは絶対につかまえようと心に決めていた。
 教室を出ようとする樫槻と、訪ねてきた辰巳が、ちょうど入口のところでぶつかりそうになる。驚いた樫槻がやや狼狽えたように視線を揺らしたので、辰巳は逃がすまいと腕をつかんだ。
「樫槻、もしかして俺のこと避けてた?」
「……違う。避けてるわけじゃ……ただ……」
 かすかな声で言ったが、辰巳の耳には届いた。
 巻き込みたくないし。
 辰巳は落ち着くように心の中で自分に言い聞かせ、改めて口を開いた。
「一緒に帰ろうか」
 樫槻はためらうような素振りを見せたが、小さく頷いた。
 並んで校舎を出て、校門をくぐった。家へ向かう道を、なんとなく雑談しながらふたりは歩く。辰巳は敢えていつも通りにふるまった。その方が樫槻を安心させるからだ。
 五分ほど歩いたところで、突然囲まれた。ぎょっとした辰巳は、視界の中にいる樫槻が相手を睨みつけていることに気づいた。改めて周囲を眺めてみると、数人は見覚えがあることに思い当たる。去年卒業したはずの男たちも混ざっていた。
「……なんなんだ、あんたたちは」
 辰巳が口を開くと、ざっと十人ほどはいる不良たちが馬鹿にするようにせせら笑った。そのうちのひとりが、樫槻の胸を小突く。
「立派に彼氏がいんじゃねぇか。このやらしい身体でつかまえたのかよ」
 辰巳は驚いて、反射的に樫槻を見つめてしまった。樫槻は辰巳とは視線を合わさず、目の前に立ち塞がっている連中をただ睨んでいる。
「辰巳」
 突然呼ばれて辰巳が顔を近づけると、樫槻は小さな声で言った。
「おまえだけ逃げろ」
「……なに言ってんだよ。そんなこと……」
「あいつらの目的は俺だけだから」
 そう言われて素直に逃げられるはずがない。樫槻の味方でいようと心に決めているのに、彼だけ置き去りにしたら意味がない。
「逃げるなら一緒にだよ」
 辰巳がそう告げると、樫槻は一瞬泣きそうな顔をした。
 囲まれていたのですぐには逃げ出せず、ふたりは小突かれるようにして場所を移動させられる。ついた場所は大きな川が流れている橋の下の河原で、他に人の気配は微塵もなかった。
 強引に突破するしかないと辰巳は思い、樫槻の手をつかんで突然走り出した。不良連中も慌てたように追いかけてきて、ひとりにタックルされて引き倒され、そのまま集まってきた連中にボコボコに蹴られた。
 樫槻は殴られも蹴られもしなかった代わりに、両側から身動きとれないようにつかまえられた。そのまま引きずられるように運ばれる。
 ボロボロにされて口の端から一筋の血を流した顔のまま、辰巳も引きずられるように運ばれた。
「辰巳っ!」
 樫槻の叫ぶ声が聞こえてきて、辰巳は焦りながら瞼を開ける。身体中が痛みを訴えてきて、苦痛に顔を歪ませた。
 不良連中のターゲットは樫槻に移っていた。乱暴に制服を引きちぎられた樫槻の胸があらわになる。ズボンも下着ごと奪われて、いとも簡単に樫槻は裸に剥かれた。
 辰巳は狼狽えた。しかし両側からしっかりと、ふたりの男に押さえつけられていた。
「……樫槻っ」
 焦って叫ぶが、腕を振りほどけない。
 不良のひとりが辰巳の傍に来た。斑条だった。
「樫槻がいつもなにやってんのか、よっく見てろよ。教えてやるから」
 裸にされた樫槻は、あちこちから伸びる腕に押さえつけられたまま、腰を抱え上げられた。なんの準備もなく、男の下半身が押しつけられる。
「うっ……ああああっ……!」
 耳をつんざくような悲鳴があがり、辰巳は必死で樫槻を呼んだ。だが呼んだところで意味などなく、腕を振りほどこうと必死で暴れた。「おとなしく見てろっ」と怒鳴られて、頬を殴られた。
 卒業生らしい男が、樫槻の身体を使って性欲の処理をしていた。容赦なく何度も突き上げて、樫槻の悲鳴など聞こえないかのような顔をしている。樫槻はすでにボロボロに泣いていて、痛みのせいか青ざめていた。
 最初の男がどくと、次の男が樫槻を犯した。辰巳が必死で身を乗り出そうとしても、両側からつかまえている腕から逃れることはできなかった。
 次から次へと入れ替わって樫槻の上にのしかかった。後ろだけではなく、樫槻の口を使う者もいる。樫槻の足に伝うのは男たちの放った精液だけでなく、血の色も混ざっていた。
 やがて樫槻は悲鳴すらあげることができなくなり、ぐったりと衰弱していった。そんな風になっても不良たちは構わずに、樫槻を犯し続ける。
 やがて斑条も樫槻のなかで達すると、ズボンを戻しながら辰巳の傍に来た。
「あれ、泣いてんの? んだよ。あれ見てなんで泣くんだよ。下手なAVよりすげぇってのにさ。普通おっ勃たてるだろ? あんなショーなかなか見られないんだぜ」
 辰巳は、目の前でくだらない言葉を喋っている男に、残酷なほどの殺意を覚えた。
 斑条だけではない。今、樫槻を犯した連中すべてを殺したいと思った。
 事を終えて満足したらしい不良連中のひとりが、ぐったりと横たわったまま動かない樫槻を軽く爪先で蹴った。樫槻の傍から離れると、みんな辰巳の存在などすっかり忘れ去っていたらしく、思い出したような顔で集まって来る。
「どーする、こいつ」
「まんま放っときゃいんじゃねぇの」
「離してやれや」
 両側から辰巳の腕を拘束していた連中が、ようやく手を離した。その瞬間、辰巳は爆発したように不良のひとりにつかみかかった。拳を振り上げると、他の場所から勢いよく蹴りつけられる。バランスを崩すと同時に、喧嘩慣れした不良たちの腕や足が容赦なく振りかかってきた。
 立て続けに降りかかる衝撃で、辰巳は気を失った。不良連中は玩具が力尽きたことを知って、あっさりと興味をなくした。そのまま連れ立って去っていく。
 辰巳が意識を手放していたのはほんの数分間だった。ふっと目を覚ますと、全身が痛みを訴えてきた。だが辰巳は必死で身体を起こすと、足をよろめかせながらも樫槻の傍へ向かった。樫槻はまだ、ぐったりとしたいた。
 痛々しい裸身のまま倒れている樫槻を、辰巳はどうしていいのかわからなかった。だが、周辺に落ちている制服と鞄を集めてから、そっと樫槻の頬に触れた。
「……たつみ……」
 かすれた声が聞こえてきて、彼が意識を手放してないことを辰巳は初めて知った。
「……ごめん……巻き込んだ……」
「そんな話はいいよ。それより樫槻の身体の方が」
「いいんだ……俺は。もう今さらだから……」
 辰巳の胸がズキンと痛む。いつから……と思って、はっきりと思い当たる日があることに気づく。
 中学二年の夏。
 体育館裏でぐったりとしていた樫槻。あの日を境に、彼は変わってしまった。
 辰巳はそっと樫槻の背中に腕を差し込んで、そのまま強く抱きしめた。
「……ごめん。俺、全然気づいてやれなくて、ごめんね。樫槻がこんなつらい目に遭ってたこと、全然知らなくてごめんね」
 辰巳が謝ると、樫槻は不思議そうな表情を見せた。どうして彼に謝られなくてはならないのか理解できなかったのだ。
 あの真夜中の夏のように、樫槻は辰巳を振り払ったりはしなかった。強く抱きしめられるのを心地よく感じているかのように、力の入らない腕をそっと伸ばし、辰巳の首につかまるようにまわした。
「どんなことがあったって、俺は樫槻の味方だから。絶対に味方だから」
 訴えかけるような辰巳の声を、樫槻は瞼を閉ざして、ただ黙って聞いていた。

 中学を卒業し、高校に入学すると、ようやく不良連中はつきまとわなくなった。
 飽きられたのかもしれない、と樫槻は言い、晴れやかに笑った。ようやく解放された喜びだったのだろう。辰巳ももちろんホッとしたが、彼の中ではまた別の問題が持ち上がっていた。だがそれを樫槻に正直に話すわけにもいかず、そっと胸の奥にしまっておく。
 きっと一生言えずに終わるのかもしれない。
 辰巳はひそかにそう考えた。心にも身体にも傷を負っている樫槻に、こんなことは教えられない。辰巳にできることは、ただ傍で寄り添っていることだけだ。永久に。
 一生の人生かけて。ただ傍にいるだけ。
 樫槻はいずれ、普通の恋愛をして普通に結婚するのだろう。普通に就職をして、辰巳とは永遠の親友のように過ごしてくれるはずだ。辰巳はそれで満足しなくてはならない。
 だから辰巳は本当の気持ちを胸にしまう。
 そして樫槻の隣にいる。
「辰巳と同じクラスでよかったよ。知らない人、多いし、ちょっと心細かったんだ。俺いろいろあったから、ちゃんとやってけるか心配だったんだけど……大丈夫かもしれない」
 安堵したように笑う樫槻に、辰巳は穏やかな笑顔を返す。
「なんかあった時はちゃんと俺に言ってよ。俺は樫槻の味方なんだから」
「うん。今度なんかあった時は、絶対にちゃんと言う。でもホントは、なにもないのが一番だよね」
「そだね」
 どうか平和で無事な高校生活を送れますように、そう願いながら辰巳は、もう一度自分の気持ちを胸の奥にしまった。

END