天国の終末 6

 一時間が過ぎてから、夏生に何を盛られたのかがわかった。
 授業を受けている最中に、それは来た。
 身体の中を渦巻く歯がゆい感覚。下半身が刺激を求めている。脳が送り出した幻覚だこんなの。そう思い込もうとしても、薬の作用は身体に刺激を与えろと叫んでいる。
 呼吸が苦しくなった。汗がにじむ。人目を気にせず、ここでやってしまいたいような気持ちに陥った。なんとか精神力で耐えようとした。夏生がなんでそんな薬を持っていたのかわからない。けどこれは。
 媚薬。催淫剤。たぶんそういうものだ。
 じっと耐えているうちに授業が終わった。昼休みの時間だった。オレはまずトイレに飛び込もうとした。……けど。
「どうしたんだ?」
 教室を出る前にオレの腕をつかんで問いかけてきたのは……仁科だった。
「すごく目が潤んでる」
 奇妙な瞳の色を見たと思った。
 仁科はうっとりと、明らかに何かを期待している態度で、オレの腕を引く。
「困ってるんだろ? いい場所に連れていってやるよ」
 ……っ!
 反射的にわかった。仁科は薬のこと知っている。
 オレが今どういう状態なのかわかっている。
 夏生の顔が脳裏に浮かんだ。他に教える奴はいない。
 鞄を持たされた。それから仁科はなんでもないことのように言う。
「早退届け、もうとっくに出してあるからさ。高村の具合が悪くて、俺が付き添い」
「な……」
「家、近いこと知ってるよな? だから俺が送ってやることにしたんだ」
 逃げないようにとでも思ったんだろうか。仁科はつかんだオレの腕を放さない。
 身体が疼いてオレはどうすればいいのかわからなかった。
 腕をつかまれたまま道を歩き続け、オレの頭は身体中を巡る疼きのことしか考えられなくなっていた。早くなんとかしたい。解放されたい。そんなことばかりだった。
 どこかの家に着いた。
 たぶん仁科のうち。
「今うちさ、誰もいないから。どうせ帰ってくるのも夜の八時くらいだから気にしなくて大丈夫」
 家の中に連れ込まれた。オレは抵抗できなかった。
 この状態をなんとかしてくれるのなら、誰が相手で何をされようとどうでもよくなっていた。
 仁科の部屋に連れて行かれて、ベッドに押し倒された。服を脱がされてのしかかられても、オレは抵抗できなかった。
 貪るようなキスをされて、思わず応えてしまう。
「……すごい」
 仁科が感動していた。
「A組のおまえの知り合いが、高村が間違って媚薬飲んだって言ってたんだ。高村って俺との関係をそいつに話してたんだって? それで知ってるんだって。高村は媚薬でかなりおかしくなってるから、なんとかしてやってくれって頼まれたんだ。本当におまえ、呼吸が荒くなってるし、顔も赤い。目も潤みっぱなしだ。なんとかしてほしいんだろう? 俺がなんとかしてやるよ」
 なんとかしてほしかった。
 たとえそれが夏生の策でも。
 夏生が何考えているのかわからない。オレをどうしたいのかもわからない。
 仲間にでもしたいのか?
「ん……」
 仁科に抱きしめられただけで、オレは気が遠くなった。
 仁科は本当に嬉しそうにオレに愛撫を注いでくる。敏感になった肌は過剰なくらい感じて、必要以上の声が喉から洩れた。
「すごい……すごいよ高村」
 仁科は感動しまくっていた。
 うつぶせにされて腰をつかまれ、まるで動物のように犯してくる。オレの過剰な反応に、いちいち仁科は喜んだ。何度もいかされて、ぼろぼろにされた。それでもオレの身体は快感を求めた。止まらなかった。

「……落ち着いた?」
 だいぶ経った頃、耳元で仁科が囁いた。薬が切れたのか、身体が満足したのか、ようやく疼きが止まっていた。どんな強い薬だったのか、なんで夏生が手に入れられるのか、わからないことは多すぎた。
 さっきまでのオレは狂っていた。
 身体が快感を求めておかしくなっていた。
 こんなの、オレじゃない。
 けれどこの状態を、仁科は助けてくれたのだ。そこには深い下心がある。そんなの知ってたけど、助かったのは確かだ。
 仁科は激しかった。
 オレもそれを求めてた。
 けれどオレの中には激しい後悔が残った。
「……おまえとは、こんなことしないつもりだったのに」
「なんでそんなこと言うんだ? 俺は嬉しかったのに。そりゃ、薬にやられてるところにつけ込んだよ。でも、そうしなきゃ、おまえは辛かったわけだろ?」
 ……その通りだった。
 夏生の罠に簡単にはめられたのだ。
 夏生は俺を引きずりこもうとしてるんだ、きっと。
 同じ世界へ。
 同じ道へ。
 そうはいかない。
 夏生のいいようにはさせない。
「高村、好きだ」
 本気で愛しそうに抱きしめられて、キスされてしまうと、こんな仁科を拒絶するのは可哀想な気がしてくる。
 けどオレは仁科に関心ないし、こんなことされても嬉しくなかった。
 オレは上半身を起こした。強い疲労感が全身に襲いかかってくる。本当なら、このまま朝まで爆睡してしまいたい。そんな気持ちに鞭打って、ベッドから出ようとした。
「高村、どこへ行く気だ」
「帰るんだよ」
「そんな身体で?」
 腕を引っぱられた。それをオレは振り切った。この冷たい態度に、仁科の表情が泣きそうに歪む。
 かまうわけにはいかなかった。
 捨てられた犬猫じゃないんだから。
「シャワー借りていい?」
「いいけど……帰るなよ」
 ベッドから降りた仁科が、オレの肩を抱いた。
「薬、本当に切れたのか? まだ少し残ってるんじゃ……」
 耳元で囁かれた。
「残ってないよ、もう」
 オレが即答すると、仁科が寂しそうな顔をする。
「ほんとに……好きなんだ。本気なんだ」
「悪いけど、オレ本当におまえとはもうあんなことしないから」
 冷たいよなオレ。
 だけど何で仁科だったんだろう。夏生の奴。薬のこと教える相手が仁科である理由?
 考えてもわからなかった。夏生はクラスの半分の男子と関係を結んでいると言っていた。その中で何故、仁科が選ばれたのか。単なる気まぐれかもしれないけど。
 シャワー借りて、念入りに綺麗にした。制服しかないからそれを着て、すがるような仁科の目を振り切って家を出た。

 その夜。
 夏生の専用電話が鳴った。
 受話器を取ると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。
『激しいセックスはどうだった? 悪くなかっただろう?』
「……夏生」
 気が抜けた。そんな用でわざわざかけてくるか?
「激しかろうと激しくなかろうと、オレは面白くもないし楽しくもない。そんなにやりたいなら、夏生は夏生で勝手にやってろよ。それはオレの身体だけど、どうせたいして執着してないからさ。勝手に使えよ」
『勝馬は元に戻りたくないんだ?』
「どうでもいいだけだよ」
 話すのが嫌になってきた。受話器を置こうかと思っていた矢先、
『なんで仁科なのか、訊かないの?』
「……なんで仁科だったんだ?」
 オウムのように繰り返したオレに、受話器の向こうの夏生が機嫌を損ねたのがわかった。
『あいつね、しつこいんだ。惚れると』
 ……なるほど。
 ようするに、オレに対する嫌がらせで仁科を選んだと。
「なんでそんなことすんの? オレにどうしてほしいわけ」
『だってきみは僕だからさ。僕のやりたいように扱っていいってことだよ。それだけ』
「勝手だな」
『勝手だよ』
 夏生の声には面白がっている響きがあった。
 オレは何も言わずに受話器を置いた。これでさらに夏生は腹を立てることだろう。
 けどそれきり電話が鳴ることはなかった。
 何考えて生きているのかわかりにくい分、夏生は怖い。
 なんでこんな怖い奴が優等生で、人気があって、成績トップで、こないだまで副会長やってたのか、不思議で不思議でしょうがない。
 夏生は猫かぶりの王様なのかもしれなかった。

 教室に他の連中がいる時なら、仁科はおとなしかった。
 人目を避けてオレを誘おうとする奴は他にもいたけど、冷たくあしらうと去って行く奴も何人かいた。諦めの悪い奴は次回挑戦する気のようだ。
 その中で、気になる視線を向けてくる奴がいる。
 長沢晴正だった。
 端正な顔だちで、妙に上品だ。家柄がいいらしく、ついこの間まで美術部の部長だった。受験シーズンが近づくと、三年生はみんな部活を引退してしまうけど、長沢は部長をやめただけで美術部には在籍しているらしかった。
 長沢は教室にいる時、よくオレを見ていた。見ているだけで、何も言ってこなかった。オレはくすぐったいような変な気分でその視線をさりげなく無視して、なるべく長沢を視野に入れまいとしていた。
 そんな長沢が声をかけてきたのは、夏生に媚薬を盛られてから一週間後のことだ。
 その時オレは、教室でひとりだった。なるべくひとりにはならないように注意していても、安心して傍にいられるほど親しい友人がひとりもいないオレには難しい。
 次の授業が科学実験室へ移動しなくちゃならなくて、途中まで行ったオレは忘れ物に気づいて引き返した。机の中を探って、置き忘れていたノートを取り出して立ち上がったところで、長沢が教室の入り口にいたことを知った。
「……なに?」
 長沢はまっすぐオレのこと見てたから、何か言わなきゃと思って訊いた。
「おまえ誰だ?」
 長沢の第一声はそんな台詞で、オレは心臓をつかまれる思いをした。
「だ……だれって……」
 戸惑いながら答えようとすると、長沢はまっすぐオレの方に歩いて来る。
「おまえ、夏生じゃないだろう」
「な……夏生、だよ」
 声が震えて説得力がなくなった。
 なぜそんなに動揺するのか考えてみて、わかった。
 長沢の目が、オレを見透かそうとしていたからだ。
 ガシッと肩をつかまれた。長沢は穴が空きそうなほどオレを見つめて、
「違うな」
 と言った。
 オレはと言えば、長沢の目ってずいぶん綺麗に澄んでるな、なんて関係ないことを考えた。
「夏生じゃなかったら、誰なんだオレは?」
 今度は落ち着いた声が出た。
「さあな。それはわからないけど……。夏生じゃないことだけはわかるよ」
 フッと記憶の中で仁科の言葉がかすめた。
 そうだ、美術室で夏生と……。
 上品そうに見えるけど、こいつもそれか。
「夏生の瞳は、少し歪んでいたから」
「え……」
「綺麗なフリを装って、歪んでいることを隠していた。けれどおまえは、そんな風に歪んでいない」
「そんな風に思っていたくせに、寝たのか?」
「誘われたんだ。興味がないと言えば嘘になる。けれど一番気になっていたのは、夏生が何を思って誘ったのか、だった」
「それで……わかったのか?」
「いいや。夏生とは二度ほどそういう関係になったけど、何もわからなかった」
「……だろうね」
 結局、誰にも夏生はわからない。
「じゃあ、オレは科学実験室に行くから。長沢は行かないの?」
「三年A組に、柚木勝馬という男子生徒がいる。ちょっと聞き出したんだけど、その彼が最近、夏生のような行動を取っているらしい。思い当たることは?」
 ぎょっとした。
 長沢はいったい何を調べてるんだ?
「思い当たるって……。何をどう思い当たればいいんだ? たとえばオレとその柚木勝馬が入れ替わったとでも? そんなこと現実に起こると思ってんのか」
「いいや。ありえないと思う。けれど、そうでも思わないと、つじつまが合わないんだ」
「……!」

 いつか誰かが気がつくと、そんな風に期待していた気持ちもあった。
 その反面で、このまま永遠に誰にも気づかれたくないと、そんな風にも思っていた。
 ガラッと音がして、教室の入り口に視線を向けると、オレの姿をした夏生が立っていた。
 夏生はつかつかと中に入ってくると、傍まで来て、いきなりオレの腕をつかんだ。
「来て」
「え……ちょっと。やだよ」
 夏生のことだから、どうせロクなことじゃない。
「用があるんだ」
「今、俺と話していたんだよ、彼は」
 長沢が横から口を出してきた。夏生が彼を睨みつける。
「だから?」
「おまえが夏生なのか?」
 唐突な質問に、夏生が目を丸くした。しばらく茫然と長沢を見つめ、それから急に爆笑した。
「そんなことがありえると思うのかい? 非現実的な空想をする人だ。僕は今、この高村夏生に用がある。もうすぐ授業が始まるよ。きみは行かなくていいのかい?」
 長沢が、納得したような顔をした。
「さらに歪んだね、夏生。なんでこんなことになっているのか不思議だけれど、姿が変わったことでタガがはずれて暴走している。今の夏生はそんな感じだよ」
「うるさいな。何をわけのわからないことを言っているんだ。頭がおかしいんじゃないのか?」
 言うだけ言って、夏生はオレの腕を引っ張った。ひきずられかけたオレの肩を、長沢がつかむ。
「邪魔をするのかい?」
 夏生の声が険悪になった。
「彼はこれから授業だ。どこへ連れて行くつもりか知らないけど、このまま見過ごすわけにはいかないよ」
「いいんだよ。彼は僕のものだから」
 当然のように言い放ち、夏生は歩き出した。オレは後ろ髪ひかれる思いで長沢を見たけど、もう助けてくれそうになかった。
「待てよ。行くなんて言ってないだろ!」
「どうしてそう反抗的なんだろうね。どうせ授業を受けたところで聞いてやしないくせに。勉強、嫌いなんだろう? だから僕が違うところに連れて行ってあげようと思ったのに。この親切心を仇にするつもり?」
 なにが親切心だ!
 また変なことたくらんでるくせに。
 オレは夏生の腕を振り切った。夏生が憎しみのこもったような目でオレを睨んだ。
 ……変だ。
 もともと夏生は変だけど、さらに悪化してる気がする。
 精神の均衡が保ててない?
 もしかしたら入れ替わってしまったことで、夏生は心のどこかが不安になっている?
 本当は繊細な人で、今の状況に耐えきれなくなって壊れかかっている?
 そんな風にあれこれ考えを巡らせていたら、長沢が間に割り込んできた。
「今日は帰ってくれ。彼には授業を受けさせる。いいね?」
 夏生はしばらく黙り込んで、長沢を眺めていた。それからオレに視線を移すと、不思議な色合いの目で見つめてくる。思わずオレは吸い込まれそうになったけど、慌てて視線をそらした。
「わかったよ。放課後迎えにくることにする。逃げないでよ、夏生」
 夏生は、何の違和感もなくオレのことを夏生と呼んだ。
 ……夏生は、どこかおかしくなってしまったんだろうか?
「まずいな……」
 長沢の声がすぐ傍で聞こえた。
「……まずい?」
「いや、こっちのこと」
 長沢はそれきり話を打ち切ってしまい、オレたちは科学実験室へ移動することになった。

つづく