夏生の姿になっても、学校はたいして面白くもない場所だった。
誰も彼も夏生のことが好きだ。それはたぶん夏生としたセックスがよかったせいで、きっと誰も本当の夏生を知らない。そこまでの関係に至ってしまったせいで、夏生が自分のものだと勘違いしてる奴も中にはいると思う。
そんなことをふと思ってしまったから、夏生のクラスメートたちの笑顔が嘘くさく見えてきた。純粋に夏生に好意を寄せてるんじゃない。そこには利害がある。
いつの間にかみんなから離れて、オレは授業中だと言うのに屋上でぼんやりと空を眺めた。
そもそも、本当の夏生ってなんだ?
オレだって夏生のこと何ひとつ知らない。
「こんなとこにいた」
いきなり声が聞こえてきて、オレは心臓が口から飛び出そうなほど驚いた。慌てて振り返ると、そこにいたのはクラスメートの仁科(にしな)だった。
「さっき教室から出て行くの見たからさ。どこ行ったのかと思って探したよ。授業始まってるってのに、駄目だろ? 先生に優等生だって思われてる奴がさぼったらさ。すごくおまえらしくない」
「そう言うおまえはなんなの?」
「だって高村がいなくなるから」
ああ……って思った。
わかってしまった。
こいつも夏生が好きなのか。
夏生を好きな奴はいったい何人いるんだろう。そして夏生は彼らみんなに自分の身体を与えたのか。
それとも逆?
夏生と寝た相手はみんな催眠術にでもかかったように、夏生のことを好きになってしまうんだろうか。
仁科はオレの隣に座って、同じように空を眺めた。
「何か悩んでることでもあるのか? 俺でよかったら相談にのるけど」
「……なんでもないよ。ありがとう」
殊勝な言葉が口から出た。仁科が心配しているのはあくまでも高村夏生で、柚木勝馬にではなかった。自分が心配されてるような気になってしまうのは、単なる錯覚にすぎないのに。
仁科がオレの顔じっと見て、肩をつかんだ。顔が近づいてきて、唇を塞がれた。
……ほら、やっぱり。
誰も彼も、夏生とふたりきりになるのを狙っている。
夏生が誰のものにもならないことを知っていて、それでも夏生を求めるのか。
どんなことしたって夏生の心は手に入らないと思うのに。
それとも夏生は単なる性欲の吐け口? 公衆便所にすぎないのか。
夏生は……なんで誰とも寝てしまうんだろう?
夏生と同じことをすればその気持ちがわかるんだろうか?
長いキスのあと、仁科の手がオレのベルトにかかった。夏生ならやらせてくれることを知っている。そんな手つきで。
もしもオレがここで嫌だと言ったら、夏生に対する気持ちも冷めちゃうんだろうか。
夏生はいったいどういう存在なんだろう?
心から欲しい相手なのか。
セックスだけの相手なのか。
「今日はやらないよ」
「え?」
仁科が心底から驚いた顔をした。
そうか……それくらい夏生は当り前のように寝てやったわけか。
心の通わぬ身体だけの関係。
そうじゃなきゃ、大勢の人間の相手なんかできない。
みんなが夏生を好きだと思う気持ちは錯覚?
「やらない。そんな気分じゃないから」
押し退けた。
「え……だって、高村……今までそんなこと言わなかったじゃんか」
狼狽する仁科。
「今までは今まで。今日はやらない」
「そんなの嫌だ。俺のこと嫌いになったのか?」
はあ?
仁科は真剣だった。夏生のこと……本当に好きなのか?
夏生はきっと、誰にでも愛想がよかったんだろう。そして好きだと言う気持ちを受け止めてきたのかもしれない。逆の言い方すれば、相手のそんな気持ちを弄んでいた……?
飼い殺してきた……?
夏生には好きな人はいない。はっきり本人の口から聞いた。
夏生がわからない……。
「ごめん。本当に今日はそんな気分じゃないんだ。だから」
「晴正にはよくて、俺には駄目なのか? そんなの……っ!」
はるまさ……? 誰だ?
次から次へと……夏生の迷惑野郎が。
クラス名簿を思い起こして、ふと行き当たった。
長沢晴正のことだ。ああ、いたいた。
「見ちゃったんだ。もう、夏休み前になるけど。高村と晴正が無人の美術室でやってんの……。でも高村は俺とした時に、誰にも言うなって言ったから、きっと晴正にも同じこと言ったんだろうなって……思ったんだけど、考えると俺つらくて。高村が誰ともちゃんと付き合う気ないの、なんとなくわかってたけど、俺以外の奴ともしてたと思うと、すごく辛くて……」
オレは正直戸惑った。
こんな風に延々と語られても、オレは夏生じゃないから対処できない。
夏生の蒔いた種が次から次へとオレに襲いかかってくる。
なんでこんな奴と入れ替わっちまったんだろう。
「オレのこと好きになってくれなんて言わない。だから頼むから拒絶しないでほしいんだ」
ちょっと待てよ……おい。
やっぱり夏生はセックス玩具なんじゃないのか、それって。
勝手な言い分に頭きたから、オレは断固として拒否することにした。
「だったら! 他の奴に頼めよ。オレじゃなくたっていいだろ。他にいくらだっているだろ、頼めばやらせてくれる奴なんて!」
「高村がいいんだ! 高村じゃなきゃ嫌なんだ!」
「なんで!」
「だって俺は高村のことが好きなんだから!」
……。
言い返せなくなった。
やっぱり夏生は相手の気持ちをずっと弄んでいたわけか。本気の気持ちですら。
「それでも」
オレはこれ以上、どうしようもない状況を作りたくなかった。
「オレはおまえのこと好きにならないと思う。恋愛感情ってムリヤリ作るもんじゃないから。ひとつ、ちゃんと訊きたいけど、高村夏生のどこがそんなに好きなんだ?」
「え……」
「はっきりと聞きたい」
仁科は戸惑っていた。はっきりとした答えは持っていなかったんだろうか。
「高村の……頭のいい優秀なところとか……綺麗な顔だちとか、ほら、女の子みたいに細くて可愛いとことか……かな」
外見と世間評判しかない。
本当の高村夏生なんて知らないくせに、勝手に好きだって決めつけて。
そんなの錯覚だ。幻想だ。
「高村夏生の心の奥底には、興味なかったんだ?」
「そんなことない! ないけど……高村は隙がないから」
……そっか……。夏生は誰にも心を開かない。仲のいいフリだけして。そういうことなのか?
「抱いた時、どう思った? 隠さないで教えてほしいな」
「え? ええと……すごく嬉しかった。なんか、高村が手に入ったみたいで。高村の見えない部分を見たような気がして。高村って、手の届かない感じがするじゃないか、一見。だから、そんな高村が俺の下で乱れてくれたのが、すごく嬉しかった」
征服欲?
ふとそんな言葉が頭をよぎった。
手の届かない相手が自分の手で乱れてくれたら、嬉しいかもしれない。
それは好きという気持ちとは違う。
「悪いけど」
オレは意を決して言った。
「もうおまえとは寝ない。決めたんだ。本当に好きな相手としかしたくない。誰かを癒すために寝たりしない。誰かを満足させるために寝たくない」
それはオレの意見で、夏生の意見ではなかったけど。
夏生は誰かのためではなく、自分の快楽のためにそういうことをしてたのかもしれないけど。
今の夏生はオレだから。
仁科が泣きそうな顔をした。
「晴正とは続けるのか?」
「続けないよ。誰とも。高村夏生は変わるんだ」
オレが勝手に変えていいかどうかなんて、知らない。
夏生はきっと怒るかもしれない。
でもこれを、言い寄ってくる相手すべてに言うとなると、目眩がしそうだけど。
仁科は納得していない顔を見せた。今まで好きなように抱かせてたから、なんで今更そんなことを言うのか理解できなかったんだろう。
夏生の気持ちより自分の気持ちが優先か。
夏生を好きだというのはやっぱり幻想?
夏生はやっぱり性玩具?
「諦めない」
仁科が言った。断固とした態度。
「俺、絶対に諦めないからな!」
仁科が背中を向けて走り去った。俺は気が抜けて、その場に寝転がった。
……疲れた。
言い争いなんて慣れてないから。
しかもこんな、痴話喧嘩みたいなやつ。
……。
夏生の言葉が、ふいに脳裏に浮かんだ。
『周囲を我慢させて強姦されないようにね』
……まさかね。
オレはこの日、教室には戻らなかった。
学校に来ても屋上でさぼる日々が三日くらい続いたころだ。
職員室に呼び出された。
いろいろと説教されたけど、聞いてなかったから何言われたのか覚えていない。
もともとオレは優等生なんかじゃなかった。だから優等生の過ごし方なんて、さっぱりわからない。
夏生にもあれから会っていない。
職員室から教室に戻ろうと廊下を歩いていたら、その夏生とばったり出くわしてしまった。夏生は少し睨むようにオレを見た。
「僕の築き上げたものみんな、崩しまくってるね」
堂々と嫌味な言葉を吐けるのも、周囲に誰もいなかったからだ。
オレは夏生を眺めた。
「大学、行かないかもな」
「え?」
「どうせ落ちるよ。オレが受けても」
「ちょっと待てよ。そんなの、うちの両親が許すはずないだろう」
夏生が慌てた。そんな風に少し余裕をなくす夏生は初めて見たから、なんだか新鮮だった。
……姿はオレだけど。
「夏生は今でも誰かと寝てるの?」
訊きたいことを切り出したら、夏生に腕を引っぱられた。
行き先は、また視聴覚室。滅多に使われないせいか。
夏生は視聴覚室に貼られてある時間割を確認してから、戸に鍵をかけた。
「ここなら誰も来ないし、防音もきいてる」
「そう」
またさぼりだ。今度は親、呼び出されるかもな。
「この間、兄貴に会ってどうだった」
「……ああ、犯されたよ。いいようにいじりまわされた」
「ふうん」
オレがあまりにも普通に言ったせいか、夏生は意外そうに眉をあげる。
「夏生は? オレの姿になっても、誰かと寝てる?」
オレの顔をじっと見ていた夏生は、しばらくためらった後、頷いた。
「A組の女、三人くらいと、男がひとり」
「そうやって、また増やしていくんだ?」
「かもね」
「オレは減らしてるんだ」
「減らす?」
夏生がきょとんとする。
「そう。おまえの言った通り、オレは狙われたよ。特に男はひどいな。女の子の場合は諦めて他に彼氏つくって解決してるパターンもある。もともと夏生とは彼氏彼女の関係じゃなかったわけだし。けど、男は、他に抱きたくなるような相手が見つけにくい。付き合うんじゃなくて、それだけの関係で。それも堂々と抱いていい相手なんて、そうそういない。夏生はいい餌だったんだ。抱きたい時に抱いて許されてしまう相手。いい性欲の吐け口。簡単に言ってしまえば都合のいい公衆便所」
「だまれよ。僕はそんなつもりで寝ていたわけじゃない。僕はね、僕自身が楽しければ何でもよかったんだ。相手が誰でも。特定の誰かと続けるよりも、いろいろなバリエーションを楽しむ方を選んだんだ。相手を替えた方が新鮮だろう。それだけだ」
「でもオレは違う」
夏生がオレを睨んだ。
「それで、授業もさぼるわけか。きみが勉強嫌いなのはよくわかっていたよ。けれどね、誰もさぼれなんて言っていない。きみは僕なんだ。最低限、僕であってくれないと困る」
「矛盾してる。オレはオレとして生きていいって言ってたくせに。オレは気軽に誰かと寝たりしない。逃げられる限りは逃げる」
「続かないよ。言っただろう。周囲を我慢させると、本当に強姦されるよ」
「根拠がないな」
夏生は、不思議な目の色でオレを見た。オレの顔なのに、違う人みたいだ。
「わかったよ」
夏生が笑った。
「どこまで続けられるのか、見ているよ。明日からね。勉強のことは仕方ないな、諦めるよ。もともときみに期待することが間違っていた。元に戻れないかもしれないんだ。大学は勝馬として行くことにするよ。希望のところへね」
夏生がズボンの後ろポケットから、掌サイズのスプレーのようなものを出した。何をするのかと思って見ていたら、オレの顔に向かってシュッと吹きかける。
「何するんだっ!」
「きみは僕だよ。もう少し、修行が必要だな。これは催涙ガスだ。痴漢退治用に売っていたやつさ。気分はどう?」
涙が溢れて止まらなかった。何のつもりなんだ、夏生!
だいたい何で学校にそんなもの持ってきてるんだ?
「他にもいいものを持っているんだ。きみに会ったら使うつもりでいた。会えてよかったよ」
ぐい、と髪を引っぱられた。唇が塞がれる。夏生だ。舌が中に入り込み、ねっとりとまさぐられた。そして。
喉の奥に入ったもの。
思わずゴクリと飲んでしまった。
「な……っ」
何を飲ませたんだ?
涙で霞む視界の向こうで夏生は笑っていた。すごく意地の悪い表情で。
「勝馬は自分が正しいと思っているんだよねえ。僕のすることみんな否定して。そりゃあ、きみはきみだから、きみの人生歩んでくれればいいとも思うよ。けどね」
何をたくらんでるんだ?
「これは僕の身体なんだよ。だから僕の自由にしていいんだ。中身が誰であろうと関係ない。高村夏生はセックスが好きなんだ。もちろんきみもね」
「……なんで、そんなこと強要するんだ」
「だって、つまんないじゃないか。きみをこのまま健全な道に進ませてみたって」
「そんな理屈あるかよ」
「じきにわかるよ。何を飲んでしまったのか。それでもきみは僕のことを否定できるのかなぁ」
……え?
夏生は入り口に向かって歩きだし、鍵をはずした。それから振り返ることなく、出て行ってしまう。
催涙ガスの効果が薄れた頃を見計らって、オレも教室に戻った。
いったい何を飲ませたんだ?