天国の終末 21

 翌日、学校が終わってから夏生が来た。
 秋人は大学があるはずなのに、休んでまでオレの世話係になっていた。これも夏生の指示なんだろうな。そこまで協力する兄貴も兄貴だけど……。
 浴室に座ってるオレを見つけて、夏生が嬉しそうに笑った。そりゃ閉じ込めてる側は楽しいかもしれない。閉じ込められてる側よりは。
「明日は学校が休みだから、泊まるよ。悪いんだけど、今夜、うちか友達のところに行ってくれない?」
 夏生は勝手な注文を兄貴に言っていた。これで甘い顔するから、夏生がつけあがるんだ。
 秋人が、今夜は友達の家に泊まると言って出て行った。オレと夏生はふたりきりにされた。
 届かない場所に座る夏生と見つめ合い、オレは口を開いた。
「閉じ込めて満足?」
「まだだよ。きみはまだ少ししかダメージを食らっていない。もう少し時間が必要だね」
「……なにがしたいんだ? こんなことしなくたって、抱かれてやってるだろ」
「僕のこと好き?」
「好きだよ」
「感情がこもってないね」
「こんな真似する奴に、心の底から好きなんて言えるか?」
「なんで僕がこんなことしたのか、よく考えてほしい。そうすれば僕が何をしたいと思っているのかも理解できるはずだ」
「わかるかよ、そんなの」
 投げやりな返事をしたら、夏生がため息をついた。
「当分の間、僕はきみには触れない。それできみがどうなるのか知りたい」
 夏生と寝ない日々が続くとどうなるのかなんて、オレにはわかってた。だんだんと気が狂っていく。夏生が与えてくれる刺激がほしくておかしくなる。
 夏生はそんなこともわかんないのか?
 オレのことなんでもわかるって言ってたくせに。
「兄貴を追い出して、オレにも指一本触れなくて、何をするつもりなんだ」
「なにも」
「視姦するつもりか」
「いいや」
「何が目的なんだよ」
「それはきみの頭で考えなよ」
 ……話にならない。
「ただそこに座ってるつもりか」
「そうだね」
「手錠のせいで届かない」
「わざと届かない場所にいるんだよ」
「そこでオレを見ながらひとりエッチでもするとか」
「しないよ」
 ……わかんない。
「オレと話すの?」
「それもいいね」
「世間話? それともエッチな話? それとも、オレを傷つけるための話?」
「どれでもいいよ、僕は」
「……末田はどうしてんの」
 夏生が一瞬だまった。
「……きみをどこへやったんだって、詰め寄られたよ。場合によっては警察に言うとか吠えてた。でも彼ってね、金で解決できる人だったんだよね。つくづくうちがある程度の金持ちでよかったって思った。……あと、長沢も不審に思っているらしいよ。まだ何も言ってこないけどね」
 ……晴正!
 心臓が跳ねた。まだその名前を忘れていなかった。彼を好きな気持ちも忘れていなかった。
 そんなオレの様子に気がついたのか、夏生がわずかに眉をひそめた。
「きみは今、僕と話をしている。他のことに気を取られたら許さない」
「話してるじゃないか、ちゃんと」
「……長沢の話はやめよう。どうせきみは、彼にふられたんだろう? 言い方を変えれば捨てられたんだ」
 ズキッと胸が痛んだ。
 叩き落とされた感じだった。
「きみと中身が入れ替わった時、正直言って驚いたよ。こんな現実にはありえない異常な出来事が起こるなんて、夢にも思わなかったからね。けれど好都合だとも思った。きみのいろいろな部分を探れる、知らなかった部分まで触れられる。だから身体の隅々まで調べたよ」
「……やらしいな」
「好きな相手にはそれくらいのことするよ。もともと僕には貞操観念というものが薄いから、きみの姿になっても他の人間と寝ることは繰り返していたけれどね。その時も、きみの表情から身体の仕組まで全部調べた。だから今、僕が抱くときみはすごく気持ちよくなれる。どこをどうされると、どんな反応をするか、どんな感覚に襲われるか。全部知りつくしてるんだ。きみにそんなことをしてやれるのは、きっと僕だけだね。……他の人と寝た時、どうだった? 僕とするよりもよくなかっただろう?」
 その通りだった。
 大好きな晴正と寝ても、何かが足りなかった。
 夏生とした時のような感覚は誰からも得られなかった。
「……でも、そういうの、ちょっと違うだろ。身体だけ知りつくしたって、それだけじゃ足りないだろ。身体の相性だけじゃなくて、気持ちの方もひとつになれないと」
「僕はなりたいと思ってるよ。きみと心もひとつになりたい」
 ドキッと胸が鳴った。
 夏生みたいな外見の奴にそんなこと言われたら、他の連中なら一発で落ちる。それが男であれ女であれ、即座に落ちる。
「……夏生は、いろんな人と寝てるけど、心がつながったことって、ある?」
「ないよ」
 即答だった。
「僕が好きなのは、きみだけだから」
「どうして?」
「なにが?」
「オレのどこが好きなの?」
「すべて」
 ためらいもなく。
 まっすぐにオレの目を見て。
 はっきりと断言されてしまうと、オレの方が当惑した。
「す……すべてって……すごく都合のいい言葉だよね。だって全部それでカタがつく」
「嫌いなところは、僕以外の人を好きになったこと」
「夏生だって人のこと言えないだろ。貞操観念ないんだから」
「心は売らないよ。誰にもね。でも、きみになら捧げてもいい」
 鼓動が跳ねた。
 こうやって夏生は人を惑わすんだ。
 これは作戦だ。
 夏生はきっと何か企んでる。
 そう思わないと。
 呼吸が出来なくなりそうだった。
「捧げるという言葉も少し違うかもしれないな。僕はきみと融合したかった。けれど個々の肉体を持ち、精神を持つ人間という存在には、そんなことは不可能だ。何度身体を重ねても混ざることはない。溶け合うこともない」
 夏生は少し黙った。そして再び口を開く。
「でも、混ざるのは困るよね。以前、こんな物語があった。その宇宙人は好きな相手と融合できる生き物だった。だから気に入ったパートナーと融合をはたしてひとつの生物になった。寂しさを埋めるために混じり合ったのに、混ざってひとつの生き物になったら、またひとりぼっちなんだ。彼は再び寂しさを覚えながら宇宙を漂流している。急に思い出したよ。小さいころに読んだんだ」
「……じゃあ、別々の存在でいいんじゃないか」
「でも嫌なんだ、本当は。溶けて混ざってきみを取り込みたい。そう思うくらい僕は、きみという存在を欲している。こんな気持ちになったのは、本当にきみだけだ」
「別々の存在として生きているから、寂しさを埋められるんじゃないか。補うことも傷を癒すことも、違う生き物だから出来るんだ」
「人間の気持ちは揺らぐんだ。常に同じ場所にはいない。別々の存在だからこそ、気持ちが擦れ違ったり、心変わりしたりする。裏切ったりもする。でもひとつになれば、そんな風に裏切ることはできない」
「夏生は……寂しいの?」
 オレの放った一言が、夏生に突き刺さった……ように感じた。
 夏生は本当に何かに刺されたような顔で、オレを見つめた。
「……そんな、風に思ったことは、ない……」
 戸惑うように夏生が答えた。こんな夏生はすごく珍しかった。
 互いに黙り込みながら、しばらくのあいだ見つめ合っていた。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。
 起き上がると、浴室の外で夏生も眠っていた。
 時刻はわからなかったけど、たぶん夜中だろう。
 部屋も浴室も脱衣場も電気がつけっぱなしだったから、夏生の寝顔はよく見えた。
 なにもかけずに眠っている。部屋の温度は快適だから、風邪をひく心配はないかもしれない。
 整った寝顔をずーっと眺めていた。不思議と飽きなかった。
 夏生は本気で何もしないつもりだ。態度を見てるとそう思う。
 何もしないことで、オレがどこまで耐えられるのかを試してるんだ。
 長期戦だな。
 オレが耐え続ければ、夏生は考えを改めるんだろうか。
 夏生の身体も、心も、求めさえしなければ。
 ガクン、と壁に背を預けて寝ていた夏生が崩れた。その拍子に目が覚めて、少しうろたえるようなそぶりを見せた。オレに寝顔を見られたのが嫌だったんだろうか。
「……いつの間にか寝ちゃったな」
 取り繕うような仕種。だけど夏生は眠っていても完成された姿だった。
「……夏生は、綺麗だね」
「え……?」
 オレの口をついて出た言葉を聞いて、夏生が少し驚いたように瞬きを繰り返した。
「こうやって改めて見てるとね、夏生って綺麗な顔してるんだってはっきりとわかる。マツゲ長いよな」
「そんな褒め言葉ならべたところで、きみを解放したりはしないよ」
「……わかってるよ」
 だけど本当にそう思ったんだ。
 変だな。
 夏生のこと嫌いになりたいのに。
「オレをここに閉じ込めたのは何のため?」
「きみを観賞するためだよ」
「ここに監禁しておけば、オレが夏生だけのものになるから?」
「それもあるね」
「……考えろって言ったよな。なんで夏生がオレにこんなことしてるのか」
「うん」
 夏生の笑顔はやけに幸せそうだった。
「……こっち、来ないの?」
「行かない」
「せめて服、帰せよ。オレだけ裸なんて分が悪すぎる」
「いやだ」
「じゃあ、おなか空いた。なんか食べたい」
「何が食べたい?」
「なんでもいいよ。まともな食い物なら」
 夏生が立ち上がった。そのまま歩いて姿を消す。たぶん、キッチンに向かったんだと思う。
 なにかガサガサと音がする。ビニールの袋を探るような。
「勝馬、コンビニの弁当でもいい? さっき、きみが眠っていた隙に買って来たんだ」
「いいよ」
 姿を現わした夏生の足が、浴室へと踏み込んだ。手錠で動けないオレの傍で腰をおろし、五百八十円の弁当のフタを開けた。
 手錠のせいで不自由だけど、鎖につながっているから少しは手が動かせる。夏生から弁当を受け取ろうと手を伸ばすと、「だめだよ」と言われた。
 割箸を手に弁当のご飯をすくい、オレの唇の前へと運んで来た。
「…………」
 無言で夏生を見つめるオレに、夏生が軽く頷く。どうやら食べろってことらしい。
「じ……自分で食べる」
「だめだよ。何度言わせればわかるんだい? きみは僕に監禁されているんだ。食べないならやめるよ」
 仕方なく、オレは口を開けた。
 めちゃくちゃ照れ臭い。恥ずかしい。
 夏生はまるで親鳥のように弁当の中身をオレに食べさせた。慣れてくると、最初ほど恥ずかしくもなくなって、だんだんと妙に心地よくなる。
 全部食べ終えると、唐突に夏生の唇が重なってきた。
「……やっぱり、食べた後のキスは食べ物の味だな」
 何を確認してるんだ、こいつは?
「なにもしないんじゃなかったの」
「してないだろう?」
 キスしたじゃんか。
 夏生の目が、オレの首筋から胸へ移り、腰から足へと辿っていく。
 くすぐったさに耐えながら、オレはオレで夏生を観察していた。
 整った容姿。柔らかい唇。マツゲが長くて、小さめの顔。……視線が、合った。
 自由な片手を伸ばして、夏生の肩をつかんだ。引き寄せて腕を背中にまわし、抱きしめた。
「……何をしてるの?」
 夏生が問いかけてきた。
 オレ……おかしいな。
 変だよな。
 夏生の身体をタイルの上に押し倒した。
 覆いかぶさるようにオレは、夏生の唇に自分の唇を重ねた。
 しばらく味わうように夏生と舌を絡ませ、ゆっくりと離れた。頭の中がボーッとする。
「……なにしてんだろ……オレ」
 混乱する。
 どうなってるんだろう?
 夏生は驚きもせず、戸惑いもせず、静かな目でオレを見上げていた。
「僕に欲情してるの?」
 少し意地悪な口調。
「きみに抱かれる気はないよ。だってそちら側の経験の少ないきみは、どう考えたって下手だろう? きみが自分で僕を受け入れてくれるなら、してやってもいい」
 相変わらず傲慢だな。
「……自分で?」
 それでも聞き返した。
「僕はしばらくきみには何もしないつもりでいた。けれどきみは我慢できないらしい。だったらきみが自分からすればいい。ただし僕はきみを相手に受け身になるつもりはないから、きみが自分の手で僕を中に入れるんだ」
 相変わらず勝手だな。
 オレは少しだけ笑った。
「でも、この状態なら、逆もありだろ? オレだって男なんだから、抱かれる専門なのもおかしいよ。それに夏生は、オレ以外の人には抱かれてるんだろ? だったら……」
「経験豊富で上手な人にしか、やらせないよ、僕は」
 夏生はそんな風に答えたけど、オレは構わず唇を塞いだ。
 しばらくはそのままだったのに、夏生がオレの肩をつかんだ。いきなり身体が反転して、立場が逆転する。夏生が上から見おろしてた。
「いけない子だね。そんなにしたいの? でもやってあげないし、やらせない」
 夏生の身体が離れ、浴室から出て行った。手錠のせいで届かない場所へ。カシャンと鎖が音を立てた。
「なつ……」
「やりたいなら、ひとりでやりなよ。ここで見ててあげる」
 意地悪く夏生が笑った。
 かあっと全身が熱くなったのは、羞恥心のせいだ。オレは何をしてるんだ。
「ど……どっか行けよ。見なくていいよ。やらないから」
 顔を背けた。恥ずかしくてたまらなかった。
 でも、夏生はどこにも行く気配がない。ジッとオレのこと見てるのがわかる。
 オレは背中を向けたまま動かなかった。夏生と目を合わせたくないから。
「もう一度、僕はきみと入れ替わりたい。あれは快感を呼ぶよ。きみの中に僕がいて、僕の中にきみがいるのかと思うと、ぞくぞくする」
「自分の顔をしたやつを犯して何が楽しいのか、理解できない」
「きみは自分の顔をした相手に犯されたんだよね。変な気持ちだっただろう?」
「変な気持ちだったよ。当然だろ。オレがいったい誰なのかわかんなくなるし、生まれた時から夏生だったんじゃないかって錯覚までしたよ」
 オレは振り返った。
 夏生はやっぱり届かない場所に座っていた。
 触れられたい、キスしたい、そんな欲求が頭の中をよぎって、オレは目を背けた。
 駄目だ。完全に夏生にやられてる。頭も身体もどうかしてる。
 高村夏生という人間に支配されたがっている。
 誰のことが一番好きなのか、わかんなくなった。この世で一番好きな人は晴正のはずなのに、夏生によろめいてる。心は晴正がいいのに、身体は夏生に期待してる。
 身体の奥で何かがズキンと響いた。
 欲求不満なんだろうか。
「夏生」
「なに?」
「おまえは我慢できるのか? ずっとそこにいて」
「いざという時には、解消してくれる相手はいくらでもいるよ。僕にはね」
 これだから夏生は嫌なんだ。節操なし。
「兄貴が帰って来たらどうすんの。帰るのか?」
「帰るよ。学校もあるしね。きみが望んだとしても、秋人には指一本触れさせないつもりだから、きみは解消できないままだ。ひとりでしたって物足りないんだろう?」
 オレは唇を噛んだ。その通りだったからだ。
「いつになったらオレを帰すつもりなんだ。いつまでも学校休むわけにはいかないだろ」
「そのうちにね」
 夏生が笑った。それから何気ない素振りで部屋の方を見やった。
「夜明けだ。窓に陽が差してる」
 言われて初めて、浴室の閉められた窓が明るくなっていることに気づいた。電灯の明るさのせいで、わかりにくい。
 日曜日の朝。
 夏生は今日一日、どうやって過ごす気なんだろう?

つづく