天国の終末 12

 しばらく日が過ぎた放課後。
 オレは晴正と一緒に廊下を歩いていた。これから階段を降りて一階の下駄箱へ行き、靴を履き替えて家へと帰る。
 晴正のおかげで平穏な日々が手に入っていた。意外にオレは頑丈に出来ていたらしく、あれから休むことなく学校に来ている。それもこれも、晴正が校内にいるからだ。
 階段の手前に誰かが立っていた。
 よく見るまでもなく、オレの姿をした夏生だとわかった。
 ふいに足を止めたオレに気づいて、つられるように晴正も歩くのをやめる。
 夏生が笑顔でこっちを向いた。
「やあ。久しぶりだね」
 悪びれることなく、くったくのない笑顔だった。
「何の用」
 オレが冷たく言うと、夏生は少し寂しそうな顔をした。
「きみはどうしても長沢を選んでしまうんだね。だから僕はずっと考えていたんだ。どうすればきみを得られるのか。その前に、なぜ僕たちは互いに入れ替わってしまったのか。……不思議だと思わないかい?」
「そりゃ……不思議だけど。なっちまったものはしょうがないだろ」
「そう。けれどいつまでも受け身でいても一生このままだ。だから僕は考えた。どうすれば戻れるのかを」
「え」
 ぎょっとした。
 このまま永遠に夏生の姿のまま生きていくのだと思っていたから、その言葉は、可能性は、僕にとって脅威だ。
 夏生の姿で晴正の傍にいたいから。
「バイク事故の衝撃で僕たちは入れ替わった。ならば、また何らかの衝撃を与えれば元に戻るのではないか。僕はそう考えた。どう?」
「……そんなの、わかんないよ」
「それは僕の身体なんだ。いつまでも居座られても困るんだよ」
 夏生はわかっている。オレが戻りたくないと思っているのを。
 だからこんなことを言うんだ。
 動揺するオレの肩を、晴正が支えた。その目は、夏生に対して険しい。
「戻る方法なんて、わかんないだろ」
 オレが言うと、夏生はふわりと笑った。
 こっちに向かって歩いて来る。数歩で目の前についた。
「そんなの、なんでも試してみなくちゃね」
 ふいをついて、ぐい、と身体を引っ張られた。思わずオレはよろけ、晴正の傍から夏生の方へと奪われていた。晴正が驚いて腕を伸ばしたのが見えた。その手につかまることなくオレは夏生にひきずられ、気がついた時には……。

 身体が宙に浮いた。落下の衝撃。階段にぶつかったのか激しい痛みが全身を打つ。頭は庇われている。誰かの腕に。それは理解できた。
 気がついた時には止まっていた。薄く目を開けるとどこかの天井が見える。
 ……ああ、校舎か。
 こんな風に学校の天井を見たのは初めてだ。
 身体中痛くて疼く。どこか遠くで誰かの声が聞こえる。その声はひとりじゃない。そりゃ騒ぎになるだろう。階段からふたりの人間が落ちたら。
 そしてオレは。
 何かの力に引きずられるようにして、意識が閉じていくのを感じていた。

 目が覚めたら病院だった。
 現われた医者には打撲とかすり傷があるだけで、骨折もなければ頭にも異常はないと言われた。
 ようするに、無事、だったらしい。
 ベッドの中でぼんやりとしてたら、晴正が現われた。
「……大丈夫?」
 精彩に欠けていた。何かショックを受けたようだ。確かに目の前で階段から人間ふたりが落ちたら衝撃的だよな。
「うん。まだ身体中いたいけど。ごめんね、心配かけたね」
「いや……いいんだ。無事なら」
 晴正の目が少し揺らぐ。……どうしたんだろう。何かおかしい。
「勝馬!」
 大声と共に病室に誰かが飛び込んできた。それは母親だった。……柚木勝馬の。
「大丈夫なの、あんた。もうー……どうしてそう、事故ばっかり起こすの。お母さん、心臓いくらあっても足りないじゃないの! いいかげんにしてちょうだい!」
「……え?」
 オレは心底から戸惑った。
 目の前で声を張り上げているのはオレの母親だ。……本当の。
 オレは戸惑って晴正を見た。晴正は困ったように目をそらした。
 ……それですべてがわかった。
 夏生の思惑通りになったのだと。
「……俺、帰るよ」
「……え、あ……うん」
 引き留めることなんて出来なかった。
 晴正の受けた衝撃はオレたちが落ちたことではなく、オレたちが元に戻ったことに対してだったのだ。
 病室を出ていく晴正の背中をせつない気持ちで見送った。無事でよかったと抱きしめてくれない。それどころか、ちゃんと目を合わせてくれない。
 内臓の底に鉛の塊が沈んだようだった。

 一日入院することに決まった。
 夏生が隣の病室にいることを知り、オレは訪ねてみた。
「おや」
 ベッドの中で上半身だけ起こして、晴れやかな表情で夏生が笑った。ついさっきまでオレだった顔を眺め、手近な椅子を持って来た。夏生のベッドの傍に座る。
「長沢が来たよ。真っ先に僕のところに来るんだ。だから僕は言ってやった。僕はきみの好きな夏生じゃないよって。きみが好きだった人は柚木勝馬の姿でベッドに寝ているはずだってね」
「……来たよ」
「浮かない顔だね。もうふられたの? なるほど、長沢は姿形に惚れていただけで、きみ自身を愛していたわけじゃなかったんだね? そんなことだろうと思っていたんだ。だってきみを本当に好きなのは僕だけなんだから」
 姿形……そうかもしれない。夏生は確かに綺麗だ。柚木勝馬の顔はここまでレベルが高くない。
 そんなことをぼんやり考えていると、いきなり目の前が陰った。唇に生暖かい感触。……夏生の唇だった。
「ぼーっとしてると、襲うよ? きみのそういう無防備なところがとてもそそるんだ。ちなみに言っておくけど、きみは少し地味かもしれないけど顔立ちは悪くない。だって僕が好きになるんだから。長沢はバカだね。こんな可愛い子を手放しちゃうなんて」
 手放されちゃったんだろうか。
 目をそらした晴正の顔を思い出す。
 やっぱり夏生じゃなきゃ駄目だったんだ。
 夏生の姿じゃなくちゃ。
 結局、晴正の好きだったのは……夏生だけ。
 オレじゃなかった。
「なんて顔だ」
 夏生の腕がオレを抱きしめた。オレは抵抗することなく、夏生の肩に顔をうずめた。
「きみには僕がいればいい。僕だけでいいんだ」
 泣きだしてしまいそうだったのをこらえた。夏生がたくさんキスしてくる。オレは目をつむって受け入れた。

 学校に復帰したのは退院した二日後だ。
 晴正に会うのが怖くて、ためらった。夏生はとっくに復帰したらしくて、電話が来た。
 晴正は夏生に近づかないらしい。
 なんとなくホッとした。だからと言って、晴正がオレの傍に来てくれるとは限らない。
 間違えないようにA組の教室へ入った。席がどこかわからなかった。
 教卓に貼りつけてある座席表を見て確かめ、自分の席につく。
「おーい、大丈夫なのかよ、勝馬ぁ」
 末田竣恭(まつだしゅんすけ)が寄ってきた。なんだか、なつかしい。
「平気だよ。ぶつけただけ」
「C組の高村を引っ張り込んで階段に転落したって? なんでまたそんな真似したんだぁ?」
「……知らないよ」
 衝撃で元に戻ろうとしたんだ、夏生の奴。
 階段から落ちただけで戻るなんて。そんな簡単なことで。
「マジ平気かー? 柚木」
 今度は吉川だ。それからゾロゾロと以前つるんでいた連中が寄ってくる。
 ……こんな風に心配してくれるような仲だったろうか。
 もっと表面的なつきあいで、適当だった気がする。
 変に優しい。
 ……夏生のやつ、なにした?

 昼休み、オレは末田と一緒にいた。前から一番一緒にいたかもしれない奴だ。それでも互いに境界線があって、それ以上踏み込んでもいい関係ではなかった。
 弁当を食べてる時、そんな末田の視線が気になった。前はもっとサラッとしてたはずの関係が、違うものになってるのがわかった。
 カマかけてみることにした。
「おまえさ……オレと何回寝たっけ?」
「五回」
 末田はあっさりと答えた。
 ……やっぱり。
 夏生のやつ、いったい何人とそうなったんだ?
 オレと夏生が入れ替わっていた期間は一月半だ。たったそれだけの間に、夏生は何人の相手と寝たんだろう。
「男がいいなんて、おまえで初めて知ったんだ。すげーよな。初めてん時、主導権にぎられっぱなしでさ。情けねーの俺。でもすぐ俺がリードするようになったけど」
 そんな風に言われても、オレは動揺しなかった。……慣れたんだな。
 ただ、ここは教室で、他にも生徒はいる。こんな話、聞こえてなけりゃいいけど。
 ふと、視界に晴正が入った。
 なにげなく廊下の方を見た時だ。開いた窓の向こうに晴正が立っていた。
 思わずオレは箸を机に叩きつけるように置いて立ち上がった。末田が驚いたようにオレを見上げるのにも構わず、慌てて廊下へと走った。
「晴正っ」
「……久しぶり」
 穏やかな笑顔だった。オレは心底からホッとして、崩れてしまいそうになった。
「もう、会えないのかと思った」
「そんなはずないだろう? 病室ではすまなかった。冷たくするつもりじゃなかったんだけれど、動揺してて」
「いいんだ。こうして来てくれただけで」
 夏生の姿なんて関係なかったんだ。よかった。
「クラス違うから前みたいに常に傍にいられないけど、一緒に帰ろう」
「……うん」
 嬉しかった。幸せだった。勝馬になっても晴正は傍にいる。
 教室に戻ると、末田が変な顔してた。
「誰、あいつ」
「C組の長沢晴正だけど?」
「おまえ、そいつともつきあってんの? うちのクラスの吉川とか、吾妻とか、高崎ともつきあってんのなら知ってたけど。あと女子数人と」
「……。なんでそんなに知ってるんだ」
 唖然としてオレが訊くと、末田が当然というような顔をした。
「惚れた相手の動向なんかすぐわかるさ。ずっと隠してた気持ち見透かされてベッドインする前から、おまえにわかんないようにおまえのこと見てたんだから」
「え……」
「おまえ覚えてないの? 時々オレのこと見てるけど、もしかして好きなのかって訊いてきたのはおまえの方だぞ。だったら寝ようかって誘ったのもおまえだった」
 ……知らなかった。
 末田はオレのことが好きだったのか。
 ずっと一緒にいたのに、気づかなかった。
 机の上にあったオレの手の上に、末田の手が重なった。
「勝馬。俺、マジでおまえのこと好きなんだ。おまえはいろんな相手と遊んでるのが楽しいのかもしれないけど、そんなことするの、ここ最近急にだったけど、おまえが男を嫌だと思わないなら、俺……おまえが俺のものになってくれたらって……」
「……」
 なんて答えようと迷った。末田は真剣だった。
 ……以前のオレだったら、なんて言っただろう。
 気持ちの悪いことを言うなってあしらったんだろうか。
 ずっと隠していたという末田の気持ちが痛いくらいにわかってしまった。
 他の女の子の話をしていたオレに、告白なんかできるはずなかったんだ。
 でもオレは……。
「ごめん。もうオレ、おまえとは寝ない」
 末田が顔をあげた。
「他の誰ともしない。好きな人がいるんだ」
「……さっきの」
 オレは頷いた。
「ほんとに、ごめん」
 末田の手が、ぎこちなく離れた。そっか……と小さく呟く声が聞こえた。
「じゃあ、貴重な五回だったんだな」
 ……でもそれは、オレじゃなくて夏生だったんだよ。
 自然に会話がとぎれてしまい、それきりオレも末田も無言だった。

 放課後、約束通り晴正と会った。一緒に帰り、門を出ようとしたところで、夏生が待っていた。
「ヨリ戻ったんだね」
「……夏生」
 思わず足を止めたオレの腕を、晴正が引っ張った。
「意外に頑丈なんだね、きみたちの絆って。僕も甘く見ていたよ。元の姿に戻ってしまえば、勝馬は僕のものになると思っていたのに。とんだ計算違いだ。……でも」
 夏生が小さく笑った。意地の悪い笑み。
「時間の問題だね。長く続きはしないさ。そうだろう、長沢?」
 意味ありげに晴正を見た。晴正は口をつぐんで険しい顔で夏生を見返している。
「行こう」
 オレの腕をやや強引に引っ張った。つられるように歩きだし、そのまま門から離れた。
「あいつの言葉に耳を貸すな」
 強ばったような声で晴正が告げる。オレは頷いたけど、何かがひっかかった。
 時間の問題だね……夏生が何の根拠もなくそう言うだろうか。
「……じゃあ」
 考えながら歩いていたら、晴正の声が聞こえて顔をあげた。
「え?」
「ここ、別れ道だから。家はそっちなんだろう?」
「う、うん」
 三つに別れた道。左へ行けば高村家。まっすぐ行けば長沢家。右へ行けば柚木家。家までの距離はまだ先だけど、ここの場所はうまい具合に分岐点になっている。
「じゃあ、また明日」
 晴正が片手をあげた。つられたようにオレもあげた。
「うん。じゃあ……」
 違う。
 今までと確かに違う。
 別れ道で、人の気配がどこにもなければ、晴正はいつもキスをしていく。今だって周囲には誰もいない。
 鼓動が早くなった。
 晴正の中にはまだわだかまりがある。

 それから一週間が過ぎ、晴正と一緒にいる間、キスもなければエッチもないことに気がついた。確かに態度は優しいし、話もよくする。けれど、晴正は手を出してこようとしない。
 偶然、夏生の姿をふたりで見かけた時、晴正は反射的にそっちを見る。それから苦しそうに視線をそらす。
 それはオレにとって辛いことだった。晴正と一緒にいればいるほど苦しかった。
 オレが夏生の姿をしていない……たったそれだけのことで、こんなにも状況は変わってしまうのだ。
 だからオレは決めた。
 晴正とは別れよう。

つづく