勇者になんてなりたくないのに 8

(初掲載日:2014年4月29日)

 シグマが現れても、男の腰の動きは変わらなかった。身体の奥までねじ込まれたラムダの耳元で、男が囁く。
「いずれまた会うことになるだろう。名を教えておく。俺の名はイプシロンだ」
 どこか興奮しているような声だった。この状況を楽しんでいるのかもしれない。
「貴様、今すぐその者から離れろ!」
 怒りの形相で剣を構え、シグマが近づいてくる。彼もまた、ラムダに乱暴している男のまとう空気に気がついていた。人の形をしているが人ではない。この男は間違いなく魔物。
「人の情事に割り込んでくるとは、野暮な男だな」
 イプシロンが面白がるように笑った。シグマは険しい顔で、イプシロンの鼻先に切っ先を突きつけた。
「切り裂かれたくなければ、すぐに離れろ」
「切り裂きたければ、切り裂けばいいだろう」
 イプシロンは鼻で笑って、ひときわ強くラムダを貫いた。快感というよりも痛みで、ラムダから悲鳴があがる。
 苛立ったシグマが剣を振りかざした。確かにイプシロンに切り込んだはずだった。だが剣に手応えらしい感触はなく、ほぼ同時にイプシロンの姿が霧散し、消えた。
「なっ……」
 半裸になったラムダの身体だけがその場に残され、辺りはしんと静まり返った。
「……どういうことだ……?」
 シグマは呆然とつぶやいた。だがすぐに我に返り、ぐったりしているラムダの身体を慌てて抱きかかえた。

「楽しそうですね、イプシロン様。何かよいことでもありましたか?」
 一人笑っていたイプシロンに、側近のイオタが声をかける。広い部屋の一角でゆったりとした長椅子に腰掛けていたイプシロンは、彼に向かってニヤリと笑った。
「面白そうなオモチャを見つけたよ」
「……ああ、また意識の一部をどこかに飛ばしていたのですね」
「この城をむやみに離れるわけにはいかないからな。例の、新しく現れたという勇者の姿を拝んできた。勇者と呼ぶにはふさわしくない、ひ弱な男だったな。だが、可愛がり甲斐はありそうだ」
 楽しそうに笑っているイプシロンを眺めながら、イオタが口を開いた。
「その者がなぜ勇者として選ばれたのか、原因はわかりましたか?」
「いや、それはわからぬ。もし勇者が屈強な男だったら一瞬で殺すところだったが、あのような男ならしばらく生かしておいても害はあるまい。猫がネズミをいたぶるように、最期の一瞬まで追い詰めてやりたい」
「イプシロン様にそこまで気に入られるなんて珍しい。よほど面白い人間なのでしょうね」
「最高の暇つぶしだ。これからしばらくは楽しませてもらう」
 ふふふとほくそ笑むイプシロンを、側近のイオタは呆れ半分、微笑ましさ半分の気持ちで眺めていた。

 ぐったりしているラムダを連れて、夕暮れまでに街に到着するのは無理だと判断したシグマは、なんとか小さな洞窟のような穴を見つけて、そこに落ち着いた。草木を集めて火を炊き、魔物や獣の侵入を防ぐ。
 ラムダの背負っていたリュックはもう使い物にはならなかった。中に入っていた予備の保存食や日用品も、すべてどこかに散乱してしまった。
 シグマは自分の荷物の中から保存食と水の入った水筒を取り出すと、生気を失ったようなラムダの口元へと運んだ。わずかに首を振りラムダが拒むと、シグマは厳しい顔つきで食べるよう勧めた。
「あなたには元気になってもらわないと困るんです。こんなところで朽ち果てようとしないでください」
 ラムダは保存食の一粒をようやく口にした。シグマは水筒のフタを開けると、グイッと自分の口に含み、ラムダの上に重なった。口移しで水を注ぎ込まれたラムダは、コクンと喉を鳴らす。
「驚くほど栄養価の高い保存食です。通常の食料を食べるよりも元気になります」
「……俺、他の男に犯されました。なのに、優しくしてくれるんですね」
「あれは不可抗力です。一瞬目を離した私にも責任はあります。なによりも……殺されなくてよかった」
 シグマに抱きしめられ、ラムダは泣きそうになる。
「ホントは……殺されかけたんです……でも、途中で気が変わったみたいで」
 耳元で囁かれた名前が、何度か脳内で繰り返される。
「イプシロン、と名乗っていきました」
「……イプシロン」
「いずれまた会うことになるだろうっ、て……」
 静かに語るラムダの頭を、シグマはそっと撫でた。
「今日のことは、ひとまず忘れてください。いずれまた出会う相手かもしれないけれど、今は忘れてください」
 ラムダはそっとまぶたを閉じ、しばらく考える素振りを見せてから、そっと目を開けた。
「……シグマさん」
「はい」
「俺を抱いて」
「……え?」
 突然の注文に、シグマは驚いて瞠目した。ラムダは構わず続ける。
「今日のこと忘れたいから、俺を抱いてください」
「自暴自棄になってるわけじゃないんですよね?」
「何もわからなくなりたい。シグマさん、俺を溺れさせて」
 すがるようにラムダに手を伸ばされ、シグマは拒めなかった。ラムダの身体を強く抱きしめ、深く吐息する。
「私はあなたを常々抱きたいとは思っています。でも、今はそういう時じゃないと思っていました。心も身体も傷ついた今のあなたを、私の欲望のはけ口にはできないと」
「いいんです。好きなようにあつかってください。何も考えられなくなりたいから」
 シグマの肩に頬を押しつけ、すがりつくように抱きつく。今は泣きたいのか、ボロボロになりたいのか、ラムダにもよくわからなかった。
「……手っ取り早い方法がありますが、使いますか?」
 耳元でシグマが囁いて、ラムダは視線をあげた。
「どんな?」
「試作品の媚薬です」
 ラムダは少しだけ考えるように黙って、そして、ゆっくりと頷いた。
「使ってください」
「本当に、いいんですね?」
 シグマが念を押した。ラムダは深く頷いた。
「俺が壊れるぐらい、愛してください」
 その誘惑に打ち勝てるほど、シグマの意志は強くなかった。リュックの中に手を入れると、当分使うことはないだろうと思っていた小瓶を取り出す。フタを開けると、指先でラムダの唇を開かせた。
 一滴のしずくをそっとラムダの唇の奥へと落とす。
「……一滴だけですか?」
「効果のほどがわからないので」
 ラムダは唇を閉じて、媚薬の味を確かめる。
「ちょっと苦い……」
 そうつぶやいた直後、カッと身体がほてり始めた。
「どうですか?」
 シグマが問いかけると、ラムダは今まで見せたことのないような顔で彼を見た。潤んだ眼差しで、頬を紅潮させ、誘うような顔で見上げる。シグマはゴクリと唾を飲み込んだ。

(未完・ここまで)

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